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アヘン戦争で、佐賀藩の石炭事業は大いに潤った。ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-12-37)

アヘン戦争で、佐賀藩の石炭事業は大いに潤った。ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-12-37)

第3編 政績発展
第12巻 オランダ使節渡来
第37章 阿部閣老と薩摩の斉彬候(1843年天保14年、直正公30歳)

・幕府の老中水野が免職となり、阿部が老中となる。

・直正公は、家来に江川太郎左衛門から西洋火術を学ばせ、自らも西洋の砲術・銃陣を会得する。

・佐賀藩と薩摩藩は、ともに反射炉を作り、鉄製の巨砲を製造する企画を持っていた。薩摩藩は反射炉の築堡にのみ成功したが、佐賀藩は反射炉と巨砲の製造の両者に成功した。また、天草に軍港を開く計画を懐いた。

・ 蘭方医伊東玄朴・大石良英を侍に召し出し侍医とした。

・石炭採掘
アヘン戦争で、多数のイギリス艦船が中国近海に集合し、石炭の需要が高まった。イギリス艦船は、長崎の中国船やオランダ船から盛んに石炭を買い入れた。そこで、「加地子バッタリ」で経済的に打撃を受けていた松浦郡山代地方の役人久米雄七は、石炭採掘を提案した。農民からは、採掘の際出る排水で田地を害するとの苦情が出た。久米は藩政府を説得するべく大変苦労した。

直正公は、「これは、領内の利益を興す事業であるとして、排水が田地を汚さない方法を講じて、石炭採掘を必ず遂行すべし」と言われた。そこで、年限を決めて試掘することとなった。
久米は、採掘の汚水が田地を汚さぬ方法を村民と研究し、採炭に着手した。この石炭は、非常の高値で買い取られた。山代地方には、2・3年、大いににわか成金となったものが数人出た。これが、佐賀藩での炭鉱の始まりである。

有田の陶器、伊万里の商業、山代の石炭は利益の源となった。
ただし、船舶は、蒸気船が登場したもののその数は少なく、依然として帆船が多かった。また、上海開港で、イギリス人が移り住み、石炭の需要は高まったが、いま(大正時代)で思うほどの巨利ではなかった。

(コメント:上記のような新事業の建議が出たときに、直正公は、ほとんどの場合、ゴー・サインを出します。これが、保守的・事なかれ主義の考えの人と違います。
また、当時幕府が禁じていた巨砲の製造も、時代の要求するところとして、貪欲にかつ密かに研究します。家来に江川太郎から学ばせ、その家来から学ぶという積極性がすごいです。
・士農工商という厳格な身分関係があっても、優秀な人材は、農民から武士になったことが分かります。

・山代の石炭事業の成功は、朝鮮特需を思い出させます。大野原の開墾といい、一つ一つが積み重なり、中には失敗したものもあったけれども、あわせてみれば、佐賀藩を豊かにし、軍備・医学、科学等のレベルを引き上げていったのでしょう。その後、幕末動乱時に、新軍備が求められたとき、幕府の言うことを聞き、新しい蘭学が儒学にあわないとして拒否し、技術・人材等何の供えもない他藩から、次々に、大砲等を譲ってほしいといわれるほどになります。現代で言えば、IT、ドローン、仮想貨幣等を拒否するようなものでしょうか。)

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