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境界確定の訴え(江戸時代、佐賀藩と久留米藩との境界) 2ー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-4-11-2)

境界確定の訴え(江戸時代、佐賀藩と久留米藩との境界) 2ー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-4-11-2)

第1編 公の出生以前と幼時

第3巻 齊直公の政治

第9章 文化の奢侈状態

・境界確定の訴え(江戸時代、佐賀藩と久留米藩との境界)1からの続き

 4,1813年正月、またも、漁場境界のことで紛争が生じ、かねてからの恨みがあったので、鼻息あらく、ついに津山宇三太という者が、久留米藩の漁民を斬った。事態はますます錯綜して、溝を埋めることはできず、1816年7月、ついに両藩より訴え出て、幕府の採決を仰ぐに至った。
佐賀藩でもこの訴訟担当を決め、10月、斬った津山を逮捕して、江戸に護送した。
かくて、幕府において、法廷を開き、双方の原告・被告を呼び出して取り調べた。しかし、江戸から遠い地の境界の事なので、その事情に通ぜず、判決を下すことができなかった。

 

5, 幕府は、1821年(文政4年)4月、勘定組頭 久須見六郎左衛門と 評定所 掛沢彌兵衛を現場検証担当として往かせ、筑後川の現地を検証させることとなった。
このような藩の訴訟事件には、手土産のやりとりが行われやすいが、とくに権威ある幕府の末席であるので、わが佐賀藩もこれに注意を払い、井上を担当として、出張担当2人と郡組頭3人を遣わせて、現場検証に立ち会わせた。さらに、幕府の検証役人の出迎えとして、家老の但馬が豊前の大里まで、重松善左衛門は小倉まで出張し、心付けの品物を贈ったが、検証役人2人とも、これを斥けた。

 かくて、久留米藩の用意した船で筑後川を実況見分し、さらに榎津(大川市)に宿泊し、我が佐賀藩に対し、すこぶる冷淡な態度を示した。佐賀藩の大塚又七郎等が周旋努力し、ようやく我が藩の船にも乗船して、早津江、大詫間(筑後川河口)まで検証し、諸富(地名)に宿泊して江戸へ帰った。
しかし、幕府は、両藩確執の判断に苦しみ、柳川の立花家に諭して「調停」せしめた。結局、両藩は示談して、訴訟外の和解を願い出て、12月にいたって、和解が成立し、9年間の紛争はようやく解けた。

 

大川(昇開橋)

大川(昇開橋)

 

 

 

6,この事件は、世界の情勢に比較すれば、すこぶる些細なことに属するが、各藩の立場上、ゆゆしき問題で、封建末期の重大事件として、興味深い問題である。

(コメント:現在でも、こういう紛争は多いのではないでしょうか。幕府が管轄・判断していたのでね。表面だって争わないものの、県・市の境界周辺に産業が発達して人口が多く、にぎやかなところがあると、それを自分の領内に取り込もうとします。似たような隣の県・市には、どうしても負けられません。これは、弁護士会でも同様で、その場所に法律相談センターを設置して、客を取り込もうとします。

次に、境界確定訴訟での当事者の心理は、現在も全く同じです。笑ってしまいます。江戸時代も現代も全く同じです。)

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