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京浜鉄道敷設ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-33-97-3)

京浜鉄道敷設ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-33-97-3)

第6編  大政維新
第33巻 文明知識の開拓・版籍奉還
第97章 北海道開拓、 京浜鉄道敷設(明治2年ー1869年 56才)

京浜鉄道敷設: 新橋・横浜の鉄道は佐賀人の手により完成した。

・直正公は、蒸気艦隊を備え、造船所を作ろうと製鉄機械をオランダから購入したが、その設備すこぶる宏大で一藩の力では出来るものではないとして、長崎奉行に献納し、幕府の力で起業するよう希望した。その後ぐずぐずした後、フランス人の手で横須賀に製鉄所を設けるに至った。
   この機械は、50萬両の価格ですこぶる巨大なものと噂された。しかし実際はそうではなく、結局この機械は東京の赤羽製作所に送られ、配管などを作る用途に当てられた。

直正公は、新橋・横浜間の鉄道敷設には大いに賛成した。しかし、当時、東京以外では、荷車さえ十分に用いなかった頃で、また、公務員の給料も十分支払えない財政状態だったので、鉄道敷設は不要、と排斥の意見が多かった。

そもそも、我が国では鉄鉱に乏しいのに、通貨に用いるほどの鉄を瓦石のごとく、路上に敷くという好奇の事業は、世間の人を驚かすに十分であった。これに対し、直正公は、米国郵船に連絡する品川渡し船とても、あまり貧弱なのは、外国人の軽蔑を招くことになる。されば、今、西洋で行われている鉄道も、敷設費用を惜しんで否決すべきものではないと主張し、やがて11月11日、鉄道敷設が決定した。横浜の埋め立て地3万坪については、西洋の駅周辺の繁華街を洋行して知っている者は、将来繁華街になると予想し、資力あるものは自ら埋め立てを願い出て、後日の利益莫大なりと言っていた。

江藤新平は、鉄道敷設案の主任となった大隈重信らの間を奔走して、この埋立を佐賀にて請け負おうとはかった。しかし、「鍋島家」では不可なので、幕末に大言壮語して牢獄につながれ、明治になって放免せられた高島嘉右衛門を探し出し、彼の名前で請け負うことを依頼し、許可を得た。これは、山を抜き、海を埋め立てる土木工事で、高島屋の壮挙は江戸まで響き渡った。

東海道線の敷設建白
当時、大隈は伊藤博文とともに、英国公使に交渉して、東京・神戸間に鉄道を敷設し汽車を往復させるという建白書を提出した。

(コメント:鉄道反対の理由で、鉄が通貨に用いるほどの物だったと言う理由は、当時に生きた人でないとなかなか思い浮かびません。)

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