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明治維新は、外国人に米国南北戦争と映った。大赦で治安悪化ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-30-88-2)

明治維新は、外国人に米国南北戦争と映った。大赦で治安悪化ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-30-88-2)

第6編  大政維新
第30巻 開国勅定、江戸鎮圧
第88章 徳川氏征討(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)

・明治維新当時の鳥羽伏見の戦いは、外国人にとってアメリカの南北戦争と同じように見られていた。

・各藩は、各藩主が従来通り封建制により支配していたが、幕府嶺の大阪・兵庫は支配者がいなくなり、無政府状態となる危険に瀕し、外国人は不安の念を募らせた。が、長崎は無事であった。
・ 徳川幕府は、大阪を去るに当たって、兵庫に駐在していた英国公使パークスらに「局外中立を守られたし。」と通達した。
仏・英公使は、朝廷に対し、和交如何と問いただしたところ、朝廷は、「元来、執権者が交替しただけのことで、批准を経た外国との条約は変更することはない。」と会議で議決した。
しかし、幕府の役人は職務を放棄し、無政府状態となったため、外国人は、東西に分裂したものと見なした。長崎も、長崎奉行らは、ことごとく汽船に乗って去り、無政府の状況となった。そこで、副島次郎が上京して長崎鎮台を置くよう進言し、他方、大隈重信は長崎に止まって書生の暴動を鎮めた。

・大赦の令で、凶悪犯が釈放される。

1月15日、天皇が元服し、朝敵を除くほか、一切の罪人が大赦さる。
(久米は言う)しかし、幕府の法律は破壊され、政治は秩序を失うなか、大赦によって、凶悪の囚人を牢獄より放つのは、社会の害悪を増大し、都会はさらに物騒な状態となった。これは悪しき方針の最たるもので、融通がきかないこと、この上ないとの非難を免れない。

・外国武器商人が暗躍する

・鳥羽伏見の勃発で、軍艦の需要が高まり、諸藩からイギリス商人グラバーの下へ買い入れ申し込みが殺到した。佐賀藩の中牟田は、「躊躇は国家のためならず」と、専断にて、唯一在庫があった最新式軍艦一艘を八万八千両で買い入れた。

・江戸の瓦解

徳川慶喜は、江戸に帰った後は、上野の寛永寺で謹慎生活を送っていた。しかし、旗本ら兵隊は、これに憤激し、江戸には不満が満ち溢れ、これに対する倒幕論者は陵辱をなし、花のお江戸はたちまち暗黒の巷と化して、白昼にも強奪・殺戮が行われ、市民は老人子供を背負って逃げまどい、四方に散る者、引きも切らなかった。

京都でも、徳川方の再挙に対する議論に没頭し、新政府の整理を考える暇はなかった。これを見た外国人は、「アメリカ合衆国が分裂して南北戦争を起こしたのを彷彿とさせる」と言った。
外国公使は、王政復古の書面を受け取った後は、申し合わせて、これを革命政府と認め、局外中立を宣言した。
しかし、鳥羽伏見の戦争勃発で、諸藩が軍備を増強するのを幸いに、武器、弾薬、船舶等を双方に売りつけ、それぞれに「力を貸しましょう。」と言って武器販売を競った。

・雨の後の筍のように勤王論者が生ず

かかる状況で、徳川征討令が発せられると、勤王論者は雨の後の筍のごとく生じ、国内はますます騒然となった。王政復古を主張した三條や岩倉も、このような状況に驚愕して、前虎後狼の恐れを抱くに至った。 そこで、岩倉らは、鍋島直正公に、「病を冒しても速やかに上洛して王政復古大方針の会議に参加すべし」と申し送った。

 

・2月3日、朝廷から、各藩へ、徳川征討への出兵の要請あり。佐賀藩は北海道の先鋒を命ぜられる。
・副島次郎、大木民平、大隈重信が徴士(新政府に登用された藩士)となる。

(コメント:太平洋戦争敗戦時の混乱とよく似ています。それまでの鬼畜米英、八紘一宇、国体護持から、親米、社会主義、民主主義、組合活動への鞍替えです。いい悪いではなく、どの路線に乗った方が得かで決まります。このように明治維新当時の混乱を説明されると、明治維新から77年後、敗戦当時の日本人の行動も、維新時の日本人と極めて似ていてよく理解できます。)
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