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江藤新平の藩政改革ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-33-97-2)

江藤新平の藩政改革ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-33-97-2)

第6編  大政維新
第33巻 文明知識の開拓・版籍奉還
第97章 北海道開拓、 京浜鉄道敷設(明治2年ー1869年 56才)

江藤新平の藩政改革

藩政改革における江藤新平の方針

 江藤はいう、「政治は法律が適用される限界・範囲を固く定め、その範囲内においては、人情・情義を持ってやりとりするに任せる。ただ、いやしくも法律の定めた限界・範囲を超えた所業は、たとえ善意に出た行為といえども、決して許してはならない」と。 
 しかし、佐賀藩では、「あいばってん」(「じゃけれども」の意)とのみ横行して寛政のあとの収拾困難に陥った。そこで、江藤は、条理と情誼とを分離し、 まず条理のみを説明し、その後情誼を遺憾なく言わせて、自らもその情誼を問い、かくて条理と情誼とをバランスよく考慮した処分をしたため、ほとんど反論する余地がなく、人々は沈黙したのであった。


 佐賀の「甘え」の習慣には、次のようなものがある。新しく「長」に就いた官吏のところに、年来懇意であった者が手土産などをよろしく持参して、とてもかなえられないような事を請託することがある。そこで、その官吏は、とても希望をかなえられないと理由を言って、懇切に、無用のお金を使わないようにと、手土産を返すと、その人大いに憤慨し、「お前は出世すれば古い情誼を忘れるのか。」と憤慨するに至った。その後、その官吏は、このような請託があった場合は、強いてこれを快諾し、「あたしに出来る限りは尽力しましょう。」と、手土産を受け取った。それで、依頼者も、後日希望が達せられなくても、「貴殿の尽力をもってしても成らぬことは仕方がない。」とこれを諦めるものが多かった。これが、佐賀の「甘え」実情であった。

 
 しかし、給料の処分に不満を持つ下級武士は、その年の12月20日、夜11時、江藤新平が2人の従者を従え、駕籠で金刀比羅神社の側に来たところ、刀を抜いて駕籠を差し、江藤は右肩と脇下を刺された。江藤は駕籠より踊りでて、刀を抜いて進んだ所、賊は逃走した。江藤は出血おびただしく、包帯をしてもらい、応急の措置を受けたが、それほどの重傷ではなかった。
 やがて犯人は逮捕され、その6人は自害させられた。
  この事件で、江藤は、藩政改革にすこぶる果断の処分を行ったがごとく世間に賞賛され、意外の名誉を得た。

(コメント:江藤はどうしてこのような発想が出来たのでしょうか?)

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