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1867年王政復古時の混乱と五箇条のご誓文ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-30-89)

1867年王政復古時の混乱と五箇条のご誓文ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-30-89)

第6編  大政維新
第30巻 開国の勅定、江戸を鎮圧す
第89章 開国の規模を定む(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)

・外国人殺害事件が頻発するー切腹を見たフランス公使が途中で気分が悪くなる

正月、兵庫で、備前の家老が自分の行列に道を譲らなかったイギリス海軍士官2人を殺傷し、自殺する。
天保山で、土佐藩士がフランス人10数名を殺害する。これに対し、フランス公使ロッセは、損害賠償15万ドルと犯人引き渡しを要求する。 当時の「横浜タイムズ新聞」は、「コルシカ人のことわざに、ひとり殺されれば、すなわちひとり殺す、と言うが、我らは、ひとり殺されれば、すなわち千人を殺す決心で、日本に復習すべし。我らがひとたび命令を下せば、日本は外国の知力・武力に屈服せざるを得ない。それでも覚らなければ、インド人と同様になるだろう。」との論調であった。

結局、土佐の山内容堂は、下手人20人を逮捕し、堺の妙国寺で、フランス公使館職員と海軍士官を立ち会わせて、切腹を命じた。彼らは、10人までの切腹をみたものの、その後は、(はらわたが調から飛び出てくるのを見るに堪えきれず)目を覆って立ち、これをやめた。
当時の慣行では、罪の軽き者から殺されるようになっていたので、結局、皮肉なことに、首謀者が残ったことになった。
・イギリス公使パークスが三條綴りを通っていたとき、過激攘夷派が切りつけたが、護衛がこれを逮捕して、さらし首にした。

  ・朝廷から直正公へ軍防事務局輔の任命

直正公、3月1日、京都に到着する。軍防事務局輔に任命される。要するに、朝廷では、天皇の学問の師範となり、三條と岩倉の政治指導者として、重要な影響力を及ぼした。
当時、大久保利通の大阪遷都論が唱えられていたが、直正公は、東京遷都論であった。東北に首都をおいて、満州を牽制すると言うものであった。
当時、パークスは傲慢不遜の態度で、「再び、攘夷論が再発しており、日英両国の友好はどうするのか。」と迫ってきて、初めて外国人と対応する三条実美は苦慮していた。
これまで、外国人と直接交渉していたのは直正公のみであったので、三條・岩倉と意見を交換し、「日本ほどの国であれば、その知力・勇気を発揮して、外国に雄飛すべきであって、国内の抗争にうつつを抜かしている場合でない。」との意見を述べ、啓発した。特に、外交政策を定めて、公表すべしと言うことを説いた。

(久米は言う)朝廷が、直正公を、軍防事務局輔に任命したのは、水戸・薩摩の両藩主と同じく、天下の名声があったため、関東征討の軍務に当たらせれば、戦いの流れを有利にするとの考えがあってのことであった。
これは、直正公にとっては迷惑なことであった。幕府譜代では、徳川家のことを心配しているのは鍋島候一人で、必ず徳川家のためにやってくれると思っていた者も少なくなかった。それなのに、直正公が朝廷側に立って薩長と行動を共にして徳川側を助けないとなれば、かえって薩長よりも直正公を恨むことになるからであった。かといって、幕府側を援護して内乱を激化するようなことは火に油を注ぐようなこともできなかった。そこで、できる限り温和に内乱鎮圧に事を進めるべしとの考えであった。
実際、東海道の軍は、桑名城を収めてさしたる戦いもなくて江戸の池上に達し、東山道軍は新撰組を破って新宿に到着し、北陸道の軍も千住に到達した。徳川慶喜将軍も上野のお寺に謹慎していた。拍子抜けの形であった。

 ・五箇条のご誓文成立の秘話

制度事務局にあっては、副島種臣や福岡孝弟らが政策綱領の調査をしていたが、直正公は、大化の改新の例にならって政策綱領を立てるべしと建議したところ、直正公は、軍防事務局から制度事務局輔へ命ぜられた。そして、3月14日、「五箇条のご誓文」が発表された。(久米は言う)木戸孝允の記憶では、これは、斉藤利行、福岡孝幸が起案し、副島種臣が修正したとに記憶であった。

その四条: 旧来の因習を破り、天地の公道に基づくべし

は、副島が直正公の意向を受けて作成したものと推定される。

当時、進歩主義を主張するものは「維新」と言い、保守主義を主張するものは「復古」と唱えていたが、大半は復古思想をいだいており「天下の公道」が何かを知っている者は少なかった。その後明治8年、木戸が、再びご誓文を唱え、その趣旨に従って立憲政治を定めるに至った。

(久米は言う) 薩長ら在野の志士は、政権を把握したものの、口に任せて「改革改革で忙しい。また戦いで忙しい。」と自己の無策無能の弁護に力め、組織的・建設的な政策はほとんどなく、朝廷の枢機を担う公卿も次第にその処置に惑うばかりであった。
また、改革に乗じて、権力を握るべく競争する者が日増しに多くなり、幕府を破壊する勢いを助長するどころか、事件を挑発して混乱させる者が多かった。

 ・直正公の三條実美や岩倉具視らの人物評(大隈重信が直正公から聞いた話)

「三條実美は、最も英傑であると称せられたが、近づいてこれに接すれば、単なる品好き公卿だけであって、到底、政治の大局に当たるべき器量があるとは信じられなかった。
これまで、俗才・奸物と排斥された岩倉具視は、実際会見すると、難局に当たって発揮する胆力・勇気は抜群で、もともと人格高く学識があるわけではないが、弁論はうまく、紛争を解決し、調停の才があった。
志士の中には、才能のあるものがないではなかったが、多くは評判倒れであった。ただ、木戸孝允だけは国政の人材であると親しく接せられた。
大久保利通は、寡黙の人で、直正公はあまり信じられなかった。」

 

(コメント:直正公に対する人事は、現在では、労組幹部を、リストラ担当人事部長に任命するようなものでしょうか。
混乱があれば、これに乗じて権力を競って握ろうとすのは、いつもよくあることです。)
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