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王政復古の大混乱ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-30-88-1)

第6編  大政維新
第30巻 開国勅定、江戸鎮圧
第88章 徳川氏征討(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)

昨年(1867年)12月9日の王政復古の「大号令」による混乱

王政復古の変革は、革命のような形態であったが、実質的には、政権交代に過ぎなかった。諸藩は、依然として自らの領土を支配して封建形態のままで、条約はすでに天皇の批准を経ることとなり、新政府は、担当者を変えて、政務を行うを当然のこととした。
ところが、薩長連合は、徳川氏を北条氏の末期と同じく滅亡させようとしたため、誤って革命と見なされる思想を生じたのである。従って、政務の引き継ぎもなく、いたずらに徳川氏の領土を封じるのに腐心し、政府の命令は矛盾を露呈した。幕府領の大阪、兵庫、長崎には、早く官吏を派遣すべきなのに、それもできず、外国人から「無政府に陥った」と笑われ、国庫に入れるべき金品が散逸するのもわからない、との愚行を演じた。
各藩においても、「有志の士」が倒幕論の下に人心を先導使用とした。各藩当局は、これを鎮圧するのに、種々の苦心をした。

  ・京都における新政府の方針は、走馬燈のように、10日を経ずして変転した。そのため、各地方は極めて当惑した。

当時、各藩によって、公衆の治安は、保たれていた。新法令は未だ発布されなかった。そこへ、朝廷の官吏が、破格の扱いで赴任してきた。各藩の事情を知らない庶民は、驚いた。
時間の経過とともに、その混乱も落ち着いたが、朝廷の命令に疑義を生じ、その趣旨を京都へ質問して回答が来る前に、新たな事件が発生し困惑した。
当時、佐賀と京都の往復には、10日余りの日数を要した。12月9日の王政復古大号令の際も、 12月21日に、佐賀から京都へ問いあわせのため、係の者を京都に向かわせたところ、途中、1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、行き違いが生じた。
それをもって、外交の思慮が足りない薩長の過激派は、佐賀藩は幕府を助けようと勅令を怠っている、まず佐賀藩を征伐すべきと怒号した。 そこで、江藤新平が、木戸や後藤らに誤解であると説得した。

・鳥羽伏の戦いが勃発

1月3日、徳川慶喜が上洛しようとした。これを会津・桑名の兵が2万あまりくり出して擁護し、これにたいし、薩長・安芸の兵が迎え衝突した。鳥羽伏の戦いが勃発した。6日には、徳川慶喜は蒸気船で江戸へ帰り、海軍も大阪湾から去り、幕府軍は大阪から逃走した。実際のところ、薩長軍は二千に及ばず、幕府軍に抵抗の士気があれば危なかった。

・7日、朝廷が、徳川慶喜征討令を発する。この命令を送達する際、岩倉は、「徳川の旧恩を思う者は速やかに大阪へ行き、朝廷に勤めんとする者は京都に滞在して命令を待ち、いずれか明日までに去就を決せられよ。」と言った。これをもって、世間から、岩倉は「不安で方向を定め得ず。」と噂された。その後、諸侯は命令を遵奉すると答えた。
この征討令は、1週間後に佐賀に到達した。しかし、子細に読むと疑義が生じた。誰が挑戦者であるのか文面からよく分からなかった。

 

(コメント:この本が出版されたのが、大正10年・1921年で、明治維新1868年から53年後です。百科事典によれば、 明治23年・1890年には、政府の命令は、全国の県庁所在地に送達されるようになっています。
久米は、大正10年出版時の読者が、政府の命令が即日日本全国に送達されるのを当然のことと考えないように、明治元年当時の通信日数を説明してくれています。
現在の裁判でも、相続事件などでは、被相続人が生きていた当時、つまり相続事件の裁判時よりも50年ほど前のことを証明しなければならない場合もあります。 これを担当するのが若い裁判官であれば、その裁判官の生まれる遥か以前のことです。 50年前当時の常識や慣行を証明するのは至難の業です。あまりにも当たり前のことなので、文献もあまりなく、時には、自分は優秀だと思い込んで、事実に対する謙虚さを欠いている裁判官には、なかなか理解してもらえません。)
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