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精錬術(化学)の研究とオランダ医学の普及ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-2)

精錬術(化学)の研究とオランダ医学の普及ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-2)

精錬術(化学)の研究とオランダ医学の普及ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-2)

第4編 開国の初期
第19巻 長崎陸海軍伝習
第57章 長崎におけるオランダ人講習(伝習)の開始(安政2年 1855年 42才)
精錬術(化学)の研究とオランダ医学の普及

直正公は、精錬方(化学研究所)を設立して、化学工業を興そうとした。
しかし、化学は、実験ではうまくいっても、実用となる大規模なものは、成功するには難しかった。加えて、資金が少ない精錬方の様々な試験は、失敗に終わることが多く、大赤字であった。藩政府は、精錬方の廃止を主張したが、直正公は、いつも、「これは、我が道楽なれば、制限する事なかれ。」といって、存続させた。

佐野常民が推薦した化学技術者・中村奇輔、理化学者・石黒寛次、田中久重(東芝創立者)親子は、火術必需品の製造で名をはせたが、本当はエンジニアと言うべき人物であった。
中村は、西洋の書籍・図面を見るたびに、意匠をこらして制作しようという志があった。
石黒は、西洋の書籍・図面を比較検討する探究心が有り、知識透徹で、根気の強さには非常のものがあった。
田中は、匠の心と優れた技能を持ち、思慮緻密で、理解も深いものがあった。

2年前、中村がロシアの蒸気船に乗って、その構造を観察して、蒸気船の製造を志し、田中儀右衛門が、まず蒸気機関を作って、陸上における大小の制作物に利用し、その後造船業を起こして、両工事をあわせて完成するべしと主張し、石黒は、それについて、書物を渉猟して研究した。
直正公は、オランダ館長が幕府に電信機を献上するや、精錬方に発電機から電信機までの研究試験を命じた。そこで、彼らは、蒸気・電気の力を応用して産業を興そうと工夫を凝らしたけれども、一般の人は、精錬方を直正公のオランダ癖の娯楽場と思っていた。

 医術については、公は、漢方・欄医の折衷を奨めた。しかし、漢方には、空理・憶測が多く、欄医の精密・確実には遠く及ばず、今年6月からは、漢方医もこれから欄医を兼ねるべし、と命じた。

しかし、漢方医の西岡春益は、あえて命令に服さず、「医師が人の命を預かる大切な仕事である以上、自信なき学説をもって、自ら欺いて人の死生にかかわる治療を施すことはできない。西洋の医術は、その道理、その製薬は極めて精確というが、わずかの翻訳書をたどっただけで、危険な病人に対して、本意なき診断と投薬をする今日の欄医は危険である。余は、自信なきことをすることは出来ない。」と言った。

そして、医師の職を辞職しようとしたが、患者の信用が厚く、公の側に仕える一部の人が彼が去るのを欲しなかったために、公は、人をやって、西岡を説諭し、なお東西両医学に精を出すよう、言った。
しかし、その後、佐賀藩では、漢方医の排斥も多く、青年書生はみんな欄医を学んだので、漢方医は次第に廃れた。西岡も公の側を離れた。

(コメント:時代の変革期の、人々のさまざま生き様が伝わってきます。同様もことは、現代でもよく目にします。

 毎日新聞 

 生体肝移植手術後に患者の死亡が相次いだ神戸市の民間病院「神戸国際フロンティアメディカルセンターが、破産手続きの開始決定。

 この病院の医者は、西岡春益の「医師が人の命を預かる大切な仕事である」との意識が薄かったんじゃないでしょうか。患者がひどい目に会うだけです。最新の設備は高価で、その代金を支払うためには、その患者にとって、その検査や手術が適格な検査・治療法でなくても、あえて行う医者や病院が多い傾向があります。病院に行くのも覚悟しないと行けません。コワー!)

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