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維新時の日本国民の潮流ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-31-93)

第6編  大政維新
第31巻 東北征定
第93章 東北平定す(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)

・佐賀藩と庄内兵との戦い

佐賀藩は、庄内兵と戦ったが、庄内兵は手強かった。
佐賀藩は、最新式の武器で猛烈に攻撃したが、庄内兵士は容易に退かず、一つの要塞を陥落させれば、さらにもう一つの要塞を築造して抵抗するといった具合であった。庄内兵は、忍耐強く漸進して、佐賀藩は、これを容易に撃退することはできなかった。佐賀藩も、すこぶるもてあました。

佐賀藩兵士は、後装着式鉄砲で遠距離から発射し、多数の庄内兵を倒したが、 山道の狭隘な戦場は、一斉射撃に適せず、散兵での戦いを強いられた。そこで、地理になれた庄内兵の至近距離からの射撃に反撃するも、佐賀藩も多くの死傷者を出した。

そこで、直正公は、平素からこういうこともあろうと考えて、長崎のグラバーらから買い入れて貯蓄していた弾薬をすべて奥州に輸送させた。
なお、直正公は、この戦いは、政権の折り合いがつかなかったために生じたものであり、多くの犠牲を出すのを好まれず、庄内兵に対しては、なるべくは小銃でもってその勢いをそぎ、大砲で残滅するようなことを避けるべし、と命じた。

その後、東北の戦況は、米沢藩が降伏し、仙台藩、も続いた。このため、会津は全く孤城落日の光景となった。佐賀藩は、アームストロング砲を、会津東山の要塞地に据えた。結局、勝敗が決しないままで、佐賀藩は「これまでなり。」と決し、これを発射した。その威力はすさまじく、城中に落ちて多数の兵を残滅し、猛火は城内に広がった。これまで奮戦した少年白虎隊は、これを見て自刃した。藩主松平容保は、城を開いて縄についた。
庄内藩も、勢いを失って降伏した。

(その後、会津藩士が下北半島へ流され、厳寒の中、土間にわら布団で寝て、犬肉を食って生き延びる、という悲惨過酷な生活を送ったことについては、「ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 )が、詳しく語っています。)

・10月13日、天皇が江戸城に到着し、ここを皇居と定める。

当時の江戸邸宅は、多く荒廃して草は生い茂り、市民は生業を失って転々し、郊外では盗賊が横行して惨状を極めた。

 ・副島種臣、大隈重信、大木喬任、江藤新平が、徴士(明治政府に登用されて官についた藩士)となる。

いずれも、和漢古今に通じ、世界の大勢を知る者で、その政策論は建設的であった。見解を異にする場合は、かりそめにも妥協せず、論争していた。当時、学問教育は、佐賀を第一とするとの定評があった。
自ら学識に乏しかった岩倉具視は、これに感心し、その子供を佐賀に留学させた。

・維新時の日本国民の潮流

当時、国民は、長く積もった旧弊を嫌い、政治の刷新を渇望していた。そこで、朝廷も、摂政・関白制度を廃止した。
しかし、身分卑しい下級武士が、にわかに徴士となって、朝廷の高官になったのは、階級制を根本的に破壊して、秩序を失わせた。幕府領地は無政府状態に陥り、諸藩もかろうじて秩序を維持したが、その根本は動揺して、その権威はすでに失墜した。
急激の変化で、急遽に折り合いがつくものではなかった。一方には、勤王を標榜して得意げに他に圧力をかけんとする者もあれば、「叛臣」と言われて、悲憤する者もいた。

徳川追討令が出て天下の大勢が定まるといえども、諸藩における知識階級は、政府の命令が出されても、厳達されたものかどうかとことさらに疑い、枝葉末節に意見を述べ、誹り罵る声は至る処で起こった。それには3派があった。

1つは、勤王主義者で、急激の改革で攘夷を断行しようとするもの。
2つは、漸進主義者で、変革は是認するも、急激なるを非とするもの。
3つは、非改革論者で、改革を拒否するわけではないが、やむを得ない場合にだけなすもので、なるべく折り合いよく進めるべしというもの。

そのなかで、聡明・俊敏で先見の明ある者は、早く事を運び、容易に成功した。凡庸・普通の者は、付和雷同してその後を追い、多くのチャンスを失い、古い慣習の中にとどまるままであった。

(コメント:終戦時にも、同じような状況がありました。これまで天皇制・軍国主義の秩序が破壊されて、その権威は失墜します。新たに労働運動が盛んになり、軍国主義者も組合運動家に鞍替えします。大きな変革期におけるの日本人の対応が、ダブって見えます。最近は、保守政党の鞍に乗ったほうが得に見えます。)。

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