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鍋島直正公伝の概要(3)ー直正公の資質と業績—鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-0-3)

鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-0-3) ー鍋島直正公伝の概要ー直正公の資質と業績

鍋島直正公伝第1編

目録

第1編 公の出生以前と幼時

序論(鍋島直正公伝の概要)

直正公の資質と業績

直正公は、初代清久公の純血を受け継ぎ、歴代の君主の多くが非嫡出子であったのに比べ因幡藩から嫁に来た母親の嫡出であった。
保母の磯濱は、 剛毅の性格で、直正公をなよなよした公家とは全く異なる剛毅な育て方をした。
教育にあたった古賀殻堂は、儒者として名声が高く、蘭学にも意を注ぎ、西洋の知識を取りて、儒教の王道の実現を図らんとする意欲をもって、直正公を教育した。
直正公は、幼少、フェートン号事件の屈辱を味あわれた。
直正公の気宇、才力、玉の如き人格は、このような遺伝と境遇と教育によって、形作られたものと信じないわけにはいかない。

無欲・質素をもって、まず自ら守り、鍋島はあまりにもケチではないかとの評判があるのも顧みず、藩を率いていった。しかも、富を図るのは国防に費やすためであって、自分や家族の生活は応分のもので良いとし、世間の評判を気にせず、宴会を毒のようにみなして、ひたすら倹約貯蓄に勤められた。その後20年にして、藩の財政も余裕が生じるようになると、これを直ちに国防の資金に当てて、惜しむところがなかった。そこで、世間の人は、初めて、直正公の初志を知って感嘆して止まなかった。
直正公は、家督を相続して42年の間、 30年は自ら藩政にあたり、後の12年は隠居して子供に譲ったが、時勢が隠居を許さず、病気の体を押して、朝廷や幕府の命に応ぜられた。鶴の様に痩せて、外より見るに忍びなかったが、国事に及んでは、談論風発し、倦怠している人のようには見えず、別人のようであった。

世の中に名君と言われる人も、いったん補佐する人を失うと、往々鈍くなってしま人が多く、また年を経ると安易に流れて、元の賢明の名を持続すること難しく、末路は寂しく、評判も聞かないで終わってしまう人も少なくない。
しかしながら、直正公は、古賀殻堂が死んだ後も、皇室を補佐して、率先して版籍奉還、廃藩置県の断行を申請した。

顧みれば、直正公の一生は苦労の歴史であった。小康に安んじ、小成に甘んずる人ではなかった。野心や功名心と言うものも微塵にも現れたことはなかった。佐賀藩の重大な任務である長崎警固に最も力を注ぎ、国防の任務を果たされた。
直正公は自分には厳しく、他人には寛大で、公の藩政の間、浪人や切腹に処せられた藩士はなかった。これは水戸藩やその他の藩にその例が多かったのと大いに異なるところである。
幕末から明治維新にかけて、もう少し直正公の活動があってよかったのではないかと思われるが、直正公は幼少より非常の困難に苦労して、休む暇もなく、心身の疲労困憊は甚だしきものにあり、そのため、胃腸をこわされ、侍医は直正公の胃腸は薬局の如しと言うに至ったのである。

 明治になって、佐賀県は、なお富の分配は平均し、貧乏人は少なく、直正公への敬愛の情は長く存し、直正公の徳を称える声を聞かないことはない。