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長崎にロシア艦隊渡来。「鍋島猫又変化」芝居の中止ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-51)

長崎にロシア艦隊渡来。「鍋島猫又変化」芝居の中止ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-51)

長崎にロシア艦隊渡来。「鍋島猫又変化」芝居の中止ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-51)

第4編 開国の初期
第17巻 米・ロの使節渡来
第51章 長崎にロシア艦隊渡来する(嘉永6年 1853年 40才)

・幕府は、6月、大船禁止令を解除し、オランダに大船蒸気船10艘を注文することに決定。
佐賀藩も、幕府の許可を得て、蒸気軍艦2隻をオランダに注文した。各藩も艦船1・2艘を注文することとなり、天下は造船ブームとなった。

・なお、直正公は、「機械は、運用者の技術によって、その効果は異なる。物質は得やすく、人材を養うはむずかし」との持論で、オランダから陸海軍事に通じ熟練した将校を長崎に招聘し、これを教師として、その技術を伝習するべし、と提案した。幕府もその旨決定して、長崎に海軍伝習所設立の運びとなった。

・幕府から佐賀藩に大筒50挺の注文あり。反射炉による鉄の大砲鋳造は、薩摩、水戸でも製造しようとしたが成功しなかった。そのため、佐賀藩独占の事業のようになった。

・当時、浅草・猿若町では、鍋島藩の祖・鍋島直茂時代に、盲検校(けんぎょう:検査・監督役人)を壁に塗り込めたという浮き世の話を「猫又談」という狂言に加えて脚色し、検校の姿が幽霊で現れ、白装束の忍者の女が出てくる芝居で、非常に面白いものとの評判が高かった。佐賀藩では、藩祖を侮辱するものと怒り、差し留めを要請したが、人気があることもあって、困難だった。

そこでとった手段は? 佐賀藩の若者が、佐賀藩風の綿袴の粗野な出で立ちで、猿若町の食堂に入っては、芝居の時間や俳優の人相を聞き、「これを斬ることなどたやすいことよ。」とつぶやいたりした。また、劇場の周囲を回り、出入り口を探偵したりした。そのため、市川團十郎や市川小団次らも非常に恐怖心を生じ、結局、題目を変えることになった。

・7月8日、ロシア使節極東艦隊司令官アンム・プチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎に来航する.
プチャーチンは、日本の沿岸防衛は手薄でほとんど武装していないのと同じだと聞いていたところ、神の島に規則正しく巨砲が備えられているのに驚いたとのことである。そこで、長崎には、「オロシア、プチャーチンも、これには目を出した。」と唄にも歌われ、直正公の先見の明が広がった。

幕府は、条約交渉引き延ばし作戦をとり、結局プチャーチンは、9月23日出航した。

プチャーチンの目的は、アメリカの裏をかき、つとめて温和の態度で接して、我が日本人の歓心をとり、その目的を遂げることにあった。
一方、日本もアメリカの黒船に懲りていたので、これまた、つとめて穏便の態度をとった。
幕府役人がロシア船に行くと、非常に歓待し、「遠慮なく見物して下さい。」と船内を案内し、酒や茶でもてなした。大砲、武器もみせた。円錐形の弾があり、着弾距離が長く、的中率が高いとのことであった。これは、10年足らずして、銃の一大変革をもとらした。
蒸気機関車の模型もあった。

残念なことに、オランダ通訳で、ロシア人との間で、十分に言葉が通じなかった。
この歓待で、プチャーチンは、長崎人の印象にとまり、もてはやされた。

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