のらりくらりの交渉は難しい(不敬罪を犯した一橋家相手)ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-9-26)
第2編 公の初政治
第9巻 関札暴行事件
第26章 一橋家人関札侮辱の獄
一橋家人が直正公の関札を侮辱す
1,1836(天保7年)3月24日、直正公は、江戸から次の宿泊地川崎に向かっていた。
当時、宿泊先には「関札(せきふだ)」といって宿泊者の名前を書いた札を立ていていた。直正公は、東照宮外孫の姻戚にあたり、「松平」の称号を使うのを許されていたので、「松平肥前守」と書かせていた。
2,その日、たまたま、一橋家の済淳が、川崎大師に参内するのと一緒になってしまった。一橋家の先代は、家斎将軍の実父として、その威厳は絶大で、豪奢は江戸中に輝き、その家来も傲岸不遜を極めていた。
その連れの者が、宿の者に、「目障りなる故にその關札を撤去せよ。」と命じた。そこで、「自分一存では決められず、肥前の役人に連絡して指図を受けた後でなければできない」と返答した。彼らは、その話を聞くのも終わらないうちに怒り出し、田中熊八以下5・6人が、宿の手代猪之助らを傘で打ち付け、刀に手をかけて威嚇し、關札を囲む竹垣を破壊して關札を打ち倒した。猪之助らは、倒れた關札を取り上げ、膳の上に置いたところ、これを見た彼らはますます激怒し、その札を蹴って踏みつけ、旅館の宿札もことごとく破り捨てた。
3,佐賀藩の法律では、藩主の名を汚す者は、大不敬罪にあたり死刑以上の厳しい刑が課され、藩の札の署名を汚して獄門の刑に処せられた者もあった。
今回の事件を見聞した者は、この上ない侮辱だとして、烈火の如く激怒した。
当日の主任は、石川伝右衛門であったが、通常の規則を知っていたのみで、このような突発事件に対して対処する能力なく、自分の担当ではないとして責任を逃れ、まわりから不甲斐ないと悔しがられた。
4,直正公は、ほどなく川崎に到着してこれを聞くや激怒され、お側役人牟田口を江戸屋敷に引き返させ、幕府と盛姫にも通知し、我らが恥辱を雪ぐべしと言われた。
牟田口は、小山、羽室と相談し、事件のいきさつを書いた書き付けを一橋家に差し出し、田中熊八以下5・6人を差し出すように申し入れた。
一橋家の応対ははなはだ傲慢で、その返答振りは狡猾であり、言を左右にしかえってこちらに責任を転嫁するありさまであった。
小山・羽室は、牟田口と打ち合わせてきたこともあり、沈着冷静に、しかし屈服することなく、押し返して問い、多弁を慎み、着実に話を進め、先方の言い逃れを許さず、不敬罪の重要さを力説した。彼らの返答に対しては、難詰し、憤慨し、激怒して迫った。
彼らは、次第に答えに詰まり、どもり、汗が出て色を失うに至った。彼らは、「かねてより、このようなことがないよう注意しておいたところで、早速、その筋に連絡し、調査の上挨拶する。」と返事した。羽室は、「調査の上、相違なければ、下手人を引き渡すとの承認をおねがいしたい。」と念を押した。相手の山本は、「一橋家も規則があり、上に伺うのが慣例で自分の一存では何とも即答しかねる。」と巧みに言質を避けた。小山等は、一旦宿に戻った。
5,翌日、一橋家に訪ねると、昨日の山本は欠勤と言って、外山弥十郎が変わって面会した。よって、昨日の談判の概要を述べ、調査はどうなったか詰問したところ、「当方も早速取り調べをしたが、田中らは当方に詰めている者ではなく、遠方の者で何分今日は返答は致しかねる。」と返事した。さらに、「仮にその調査が終了したとしても、城主に伺う重大な事柄なので、なお念を入れる必要があり、急には物事は運びがたい。」と言った。(久米曰く、このように容易に進捗しないのは、一橋家でも大いに警戒し、この日は、才能があり弁舌に長じた者をその折衝に当たらせ、答弁もあらかじめ検討したもので、一向に進展せず、彼らの常套手段に翻弄されがちであった。)
そこで、小山・羽室は、牟田口と相談した上、「そのような返事では何分、引き取りがたい、そちらで調査が済まないと言うことであれば、幸いに名前のわかっている田中熊八方へ鍋島藩の家来を差し出すに当たり、一橋家でも誰か付き添えられ、そうすれば直ちに不法の次第が判明する。」と厳しく申し入れた。
外山は、大いに窮し、「かかる例は、未だ聞き及びたることなければ、何分、応じがたい。」と言い逃げようとしたので、二人はさらに膝を進め、「お取り調べ未了とのこと故に、取り調べの道筋が立つようにご相談申すなり、しかも、それをも拒まれるのはいかが心得てしかるべきか、いかようの取り計らいをもって、早速わかるようにしてくださるか。」とたたみかけた。
ここに、外山も言葉に詰まり、しばらくして、「何を申すも、重き事柄に付き、明日か明後日かにはわかり申すまじ。」と返事した。両人は、「しからば、その旨、書面にて、渡されたし、鍋島の江戸屋敷には、家老ほか待ちわびているので、返事の意味が違うようでは、我々も夜遅くまでそちらに詰めた意味がない。」と激しく攻めた。
外山は、しばし、中座して協議し、再度出てきて、言葉を改め、「今日1・2日中に分かるよう取りはからうとの書面を出すまでもなく、明日中には藩のご用番に伺うか、または届けるか、いずれか必ず取りはからうべく、その際は必ず書面をもって貴邸ご通知いたすべく、決して違えることはない。」と言い切った。そこで、二人は、さらに追求する必要はなかろうと引き上げた。
6,翌16日、ふたりは、一橋家に外山との面会を求めたところ、彼は理由をつけて出てこず、同僚の峰岸小膳が変わって応対した。(久米曰く、このように毎回人を変えるのは彼らの常套手段で、言葉に窮すれば「いかようの所存にて、左様のことを申せしか」と前言を翻すのに都合がよいためである。)
かくて、二人から前日の返事を求めたところ、こっちから申し込んだ人名等に違いがあるところがあり、人数も多く、いろいろ入り込みたる事情もあって、調査も急にはらちがあかず、とこの日も種々の口実を設けて弁解した。二人は、昨日の外山の約束と異なると詰め寄ると、「外山がどうして、そのように言ったのか、おそらく今日中には取り調べが終わるとの考えであろうが、何分錯綜している事件なのでなかなか思うようには参らず、」と老獪な言葉を吐き、要領を得ないようにことさら対応した。
二人は、顔色を変え、「さように、人によって言を左右にせらるるようでは交渉の意味がない、我々が願うところは事件の真相を究明し、不法者をこちらへ引き渡されたきことのみ。」と前日とは反対に直ちに帰ってきた。
7,(直正公の正妻)盛姫にとっては、相手の一橋家は、叔父に当たり将軍の弟に当たるので、彼らが手を回す前に大奥に申し上げておかねば、必ず相手が手を回して種々妨害するといって登城され、将軍にも話されたようである。
8,その後も、鍋島藩の剣法に熟達した永山等が、一橋家を訪ねて面会を申し入れていたためか、一橋家は、恐れを懐いて、「公裁(幕府の裁判)を仰ぐことに決した」旨告げてきた。
(続く)
(コメント:交渉術はハーバードロースクールの本などがありますが、現実には、そう簡単にはうまく運びません。150年前の交渉例ですが、それなりに優れているのではないでしょうか。藩の名誉毀損を雪がねば、藩はもちろん家来も、今後生活がどうなるかも分からず、文字通り、決死の覚悟だったのでしょう。
また、相手の一橋家の対応は、現在もよく見られる不誠実な対応例です。最近の交渉例かと思えるほどです。
不敬罪に相当する刑法の規定は、第92条(外国国章損壊等)
外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。