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アメリカに対する林大学頭等の腰砕け外交ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52-3)

アメリカに対する林大学頭等の腰砕け外交ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52-3)

アメリカに対する林大学頭等の腰砕け外交ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52-3)

第4編 開国の初期
第17巻 米・ロの使節渡来
第52章 長崎にロシア艦隊渡来する(安政元年 1854年 41才)

アメリカに対する林大学頭等の腰砕け外交

  ・アメリカの国書の内容
・カリフォルニアから日本まで、蒸気船では18日間で到達できるようになり、日本との交易をしたい。それは両国の利益の為である。
・アメリカの漂流船の保護をお願する。
・石炭、食料、水の供給を得るために寄港を許すべし。

 直正公は、これを一時逃れの策として信用していなかった。真実は「牛皮大の故智」であると考えていた。「牛皮大の故智」とは、スペイン王フィリップがルソンを奪取するべく、初めて軍艦を商船に仮装してルソン島を訪れた際、ルソン王に黄金を握らせ、よって便利の港に牛皮の大きさの土地を借りようと請求した。ルソン王は、いとも簡単なことだと考え許可したところ、スペイン艦長は牛皮を切ってつなぎ、これをマニラの周囲にめぐらして四方を定めた。そして、ここに国旗を掲げて城を築き、兵隊を駐留させ、ついにルソンの王城を砲撃してルソン王を殺し、全国を侵奪したとの伝えである。

・アメリカが、1854年1月10日、再び渡来する。幕府は、朝鮮・琉球の応接に準じて、林大学頭を正員として、横浜村で、談判に当たらせた。林は、初め、「たかが知れたる夷狄(いてき)のこと、何ほどのことがあろうか。」と傲慢たる態度であった。しかし、急に気後れして腰砕けとなり「天照神君が再生したまうとも、お任せあるのほかはあるまじ。」として、ベルリの言い分を理があると言って、これに抵抗することができなかった。
2月1日から、全権委員・林大学頭とペルリは談判を開始した。幕府閣僚は紛議を恐れて、後日の責任は、自らが負うということで、林らに独断専行させた。15日には、アメリカは政府の贈り物として蒸気機関車の模型や電信機等を送り、日本人の歓心を買うように努めた。そして、林等は、アメリカと親交することを大体において承諾した。

同月21日、長崎でプチャーチンと談判した筒井、川路らは、神奈川県平塚に到着し、林大学頭らの交渉を聞いた。こういう談判では、我々はロシアのプチャーチンを欺いたことになると憤慨したという事である。

(久米は言う)  筒井や川辺は、幕府内で信頼できる人物であったが、その留守の間にアメリカ艦隊が渡来して、やむなく才力において二流であった林を差し向けた次第である。

林の談判は、はなはだ弱腰で、脱刀で決闘を申し込むようなもので、アメリカ艦隊の神奈川乗りこみに対しても、まったく日本の権威もない談判結果になってしまった。これは、江戸湾の防衛が薄弱だったためでもある。
これに反して、筒井等が長崎でプチャーチンと毅然と交渉できたのは、長崎の警備が整い、海門の砲台も新たに設置していたため、筒井等も大いに気を強くして日本の権威によって強行の主張をなすことができた次第である。
攘夷とは必ずしも敵に対して砲火を開くと言うのではない。国家の権威を全うして平和を維持するのもまた攘夷である。

  ペルリが、昨年渡来した際は、江戸湾防衛にあたって、その用意がなかった人々は、古着屋・古道具屋から装備を買い入れ一時をしのいだ。そのため陣羽織や甲冑の値段は暴騰した。それで「陣羽織じゃ うきせんにて 洗い張り 覗いてみればウラガ大変」の落書きもあった。
正月末に、ペルリが上陸した際には、祝砲21発と全権委員に対する礼砲17発を発射したため、その響きは海面に轟き、すさまじいものがあった。各藩は、にわかに開戦となるとして、その用意を申し合わせざるを得なかった状況であった。

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