第6編 大政維新
第30巻 開国勅定、江戸鎮圧
第90章 江戸開城(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)
・直正公の息子直大が、横浜裁判所副総督に任命される。
当時、江戸瓦解により、将軍指揮下の兵士は朝廷に憤慨し、他方薩長の倒幕論者もこれに激高し、相互に衝突して、江戸は物騒となっていた。 隣接する横浜に居住する外国人は不安を抱き、当時唯一治安が良かった長崎を警備していた肥前藩に警備してもらいたいと希望するものが多かった。その結果、総督を東久世とし、副総督に鍋島直大が任命された。同時に、築地の「江戸開市場」取り扱いにも命じられた。
当時の横浜在住のウエンリードが発行した「ものほしぐさ」には、「長崎港は商法まことによく整い、・・大隈氏は佐賀の人で、博識英才で、時勢を察し、急務を処理し、悪を正し、仁慈をほどこした」と報道した。 他方、兵庫については、「兵庫は、未だ港らしくなく、外国人はみんな日本人の家を借りて住んでいる。」と報じた。
・長崎の浦上村付近の隠れキリシタンが、長崎居留地のフランス天主教教会を訪問して礼拝するという事件が起こる。
これを検挙しようとすれば数千人に及ぶため、彼らを譴責のうえ、釈放していた。他方、フランスの宣教師は、さらに布教に努力していた。
そこで、九州総督府の井上馨(聞多)は、大隈を参謀に勧めて法令遵守を求め、ついに逮捕者を出した。
しかし、16・7才の少女が、「私どもは何の悪事もなさず、年貢を納めるのも怠っていませぬ。そこで真の神を礼拝することさえお許しあれば、何事にも服従します。」と供述したので、井上もおおいに辟易した。
ついに、井上は、「2・3人を斬って服従せしむべし。」と言う始末であった。外国人はこれを聞いて大いに驚き、太政官代に陳情した。狼狽した木戸や大久保はこれを制止し、大隈をして交渉させた。
英国公使パークスは、交渉相手が公卿か藩主と予想していたところ、大隈が出てきたので、突如として怒りだし、「書生と交渉する必要なし。」とはねつけた。
大隈は、「いやしくも天皇の全権を帯びて来た大隈なのに、交渉をしたくないというならば、そなたの抗議は撤回したのか。」と昂然とその意気を示した。返す言葉を失ったパークスは、口を開いて、信教の自由を説明し、文明国が宗教を信仰する人を処罰するのは野蛮人のすることであって、日本国にあるまじき行為である、と怒った。
大隈は、これに対して、「西洋諸国の信教の自由はもとより承知している。されど、日本国民が神道を信ずるのを重んじないわけにはいかない。異教を禁じて血を流す先例は、西洋諸国にも多いところで、イギリスにもその歴史があったではないか。我が国にても同様だ。かって、キリスト教徒の布教に託して国家を害する陰謀をなしたことがあったので、キリスト教を厳禁した。これを知ってこの法を犯した者が処罰されるのは相当ではないか。」と主張した。これを聞いたパークスは声を和らげざるを得なかった。
朝廷も、その処分に窮し、直正公に、密かに面談し、「まずは、改宗を促しキリスト像などを破壊し、これに従わないときは、その首謀を数人斬首してさらし首にし、その余は他国に移住させて、根絶する。」との案であった。これに対し、直正公は、万一外国に連絡が行けば、相済まぬ事になる、と再考を促した。
結局、キリスト信者を諸国に移住させることになった。当時、外国人は、信者を密かに惨殺するのではないかと怒っていた。特にカトリックの国民はそうであった。
・4月11日、江戸開城。西郷隆盛 入城。
( コメント:大隈の博学さとパークスに対する交渉に敬服します。)
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