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パリの万国博覧会での日本は、連邦制国家であった。ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-29-86-2)

パリの万国博覧会での日本は、連邦制国家であった。ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-29-86-2)

第6編  大政維新
第29巻 将軍政権返上
第86章 直正公の上京(慶応3年 1867年 54才)

 京都上洛

7月、直正公は、京都に着いた。しかし夕方から激しい下痢で重体となった。そこで将軍から侍医を派遣してもらい、症状は軽くなった。いずれにしろ長い滞在に耐えられなく、京都滞在中には、政権を天皇に服することなどについて話があったと思われる。宿としていた妙顕寺には、松平春嶽と宇和島宗城が来訪し、 3人での話があった。大阪城では、慶喜将軍と面会をした。
当時薩・長・土の策士は倒幕論をすすめ、 9月には薩摩兵士千余人が上洛した。

 パリの万国博覧会

パリの佐野常臣から、万国博覧会に関する報告書が到着した。いわく「会場内で準備をしていたところ、薩摩藩の岩下から話があり、薩摩藩では薩摩兼琉球藩主の特別派遣と称して、会場でも日本の旭日旗と薩摩藩の旗を飾り、参観者に対して、徳川氏と同じ日本天皇の下に独立国家たることを参加者に示し、もって国体を明らかにする。よって佐賀藩でも同じようされよということであった。
そこで我(佐野)も承諾し、肥前国と標榜して旭日の国旗と佐賀藩の旗を交差さし、参観者をして観覧させた。

 
そこに、幕府の使いがやってきて、 条約国を歴訪して日本における主権の所在を明らかにせんとしようとしたのに、このような旭日の国旗と藩の旗を掲げるようでは主権の所在が分からなくなると言って藩の旗を降ろすように求めた。
しかし、天皇の下に各藩が連合したのが日本帝国の国体であり、決してこの2つの旗を掲げたのは不可ではない、と旗を降ろさなかった。幕府の使いは処置に窮した。これで幕府の面目は丸つぶれとなった。

 

直正公は、このような機転の利いた機転を喜んだ。公武合体運動以来、衰弱した幕府は、フランスの援助を頼むところがあった。そのため、過激派は、むしろ外国に屈しても、幕府にはあえて抵抗するという風潮を生じた。直正公は、凡人輩がフランスの支援を頼んで内乱をおこす暴挙しようとするのを大いに憂えた。幕府官僚に折りに触れて、このような不祥事が発生しないよう忠告されていた。直正公としては、政局が大変化しようとするなかで、多少の騒乱は覚悟しなくてはならないものの、極めて穏便なる方法で、事が軽くすむように、との考えであった。

 

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