第6編 大政維新
第31巻 東北征定
第91章 新明治政府の財政(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)
幕末貿易ー有田焼と石炭
・直正公は、倹約貯蓄して、戦艦や鉄砲を備えた。これは、機械文明の進歩が著しいことを見て取って、今や世界の戦争は優れた武器・機械でもって決せられると悟られたからである。従来の短兵・接戦で決したのと異なり、戦闘の距離はなくなり、兵士は猛烈な兵火に容易に近づき難くなった。これによって、まず軍用資金の増殖に勤め、外国勢力をそばに控えながら、日本国内で内輪もめをして兵士を失い資金を散財するのは無用なことだと否定された。
しかしながら、他の諸藩は、命をかけてはちまき・たすき掛けで戦うことこそ、侍だとし、これを勤王の功と誇っていた。政府の命令によって出兵した諸藩も、にわかに海外より各種の兵器を買い入れるのやむなくに迫られ、外国人は中立を標榜しながら、競って東西の両軍に兵器・船舶・弾薬等の武器を供給し、以て利益を収めた。
特に需要が増大したのは蒸気の燃料たる石炭だった。これまでの採炭地は、肥前の松浦郡が第一で、伊万里や唐津嶺にも露出した炭層があり、容易に採掘することができた。しかし、それも掘り尽くされるにまで至った。始めは、これを長崎から中国へ売却していたが、国内の騒乱のために大阪・兵庫開港以来、この石炭の需要が増大し、直正公は、大阪蔵方の付け役に命じて、米のほかに石炭販売の利益 をはからせた。したがって、佐賀の商才ある者は、石炭を販売して利益を収めた。
石炭の利用がますます増大したので、イギリスの採掘法により高島に竪坑を掘削し、ポンプで水を汲み上げて石炭を採掘し販売することを企画した。そのため、インドにいた鉱山師モーリスを雇い入れ、竪坑の採炭事業を開始することとなった。これが高島炭鉱の始めである。
・パリ万博
・日本が初めて参加したパリ万国博覧会での日本のブースは好評であった。
博覧会の開催中、日本のブースはヨーロッパ人の好奇心を集めて群衆が殺到し、購入する者が引きを切らなかった。そこでも、いろんな喜劇が演じられた。
例えば、ある婦人は、雪駄(せった)がすべすべした皮であったので、化粧をした自分のほほにこれを軽く打ち当て、「これは何人用いるのか。」と尋ねた。
また、履物は二個1組であるのを引き離して、その一個をとって去ろうとしたところ、日本人から左右を合わせて一足なりの説明を聞いても、「いや、日本の履き物の形を知るためにはただ一個で足りる。」といって、受け付けない者もいた。
また有田焼の酒呑徳利が非常に売れた。それで、日本人がその使用目的について尋ねたところ、その徳利に金具をつけてランプの台として使う、との説明だった。
また和紙が強く強靱なのを見て、和紙で衣服を作ろうと工夫を凝らす者もあった。 昆布を海草の葉であると説明を聞いたものの、食料品であるのを知らずして、最も広い物を選んで購入する者もあった。
博覧会の会場は広がったが、このように来客の目はわが国の会場に集中していた。その結果、望外の利益を収めて帰国した。
・有田焼は、佐賀藩の最大の貿易品であった。
外国貿易がようやく盛大となっても、外国人の要求は、風雅の趣味ある本窯物よりも、通読的な赤絵物に集まった。よって、清楚で趣味のある青藍の磁器は、価格は高いものの、販売額は多くなかった。
また、当時の有田陶磁器貿易の利権は、鑑札を持っていた田代に独占されていた。そこで、窯元と商人との間に利権争いが生じ、 1枚鑑札は独占権であって、有田陶器の利益を害すると主張した。ところが、代官石橋は自由製造の許可はまかりならんとして、自由製造を願い出たものを拘禁せんとの処置に出た。結局、佐賀藩政府は、代官を変えて自由製造の方法を許可することとなった。
ところで、有田焼のヨーロッパにおける需要がどのようなものか分からず、すなわち、改良すべき点がわからなかった。そこで、パリ万博から帰国した深川に説明を求めた。
一方、石丸は、有田焼が将来の有望な貿易であることを熟知し、石炭と陶磁器を基礎として、松浦郡に多大の利益をもたらさんと志した。当時、京都の改革の如きは、小さな波瀾に過ぎざるもので、鎖国にとらわれた志士の意見は狭すぎるとして志士の意見には注意を払わず、長崎をもって楽天地となし、ひたすら将来の光明を期待していた。
(コメント:有田焼が、幕末に、海外の消費者の意向にあった製品を作るというのは脱帽です。現在でも、家電メー-カーなどは、高機能の家電を輸出して、現地のニーズにあった製品を供給できていないのが実情です。 )
・ これまでの記事は、メニューの「鍋島直正公伝を読む」をクリック