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ロシア・プチャーチンと毅然と交渉した勘定奉行川路右衛門尉らー激動の幕末・明治を生きた日本人群像/鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52)

ロシア・プチャーチンと毅然と交渉した勘定奉行川路右衛門尉らー激動の幕末・明治を生きた日本人群像/鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52)

ロシア・プチャーチンと毅然と交渉した勘定奉行川路右衛門尉らー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52)

第4編 開国の初期
第17巻 米・ロの使節渡来
第52章 長崎にロシア艦隊渡来する(嘉永6年 1853年 40才)

  ロシア・プチャーチンと毅然と交渉した勘定奉行川路右衛門尉ら

・12月5日、ロシア艦隊が長崎に再度来航する。
・ロシアの要求は、樺太の国境を定めることと貿易港を開くことであった。
交渉担当は、大目付格の筒井肥前守、勘定奉行・川路右衛門尉、幕府官僚・中村為彌、オランダ通訳・森山栄之助らであった。

長崎の西役所とロシア軍艦と交互に行き来して交渉した。筒井、川路は、威厳を保つべく、狩衣の服で参列した。ロシア側は、日本側がやめるように言っても聞かず、祝砲30発を放った。
日本側が、ロシア軍艦に乗船する際は、紋服姿で、太鼓を打たせ、舟歌を歌わしめて堂々乗船した。

この時、乗船すれば、力ずくで国境を定めようとするとの噂があり、乗船についても非常に恐れがあったが、川路は毅然として「もしそのようなことがあれば、われわれは、ロシア軍艦に留まって、ロシア国に行き、ロシア皇帝と直接に談判すべしと言って動かず」と言っていた。
プチャーチンの応対は、音楽を演奏し、懇切なものであった。筒井らは、プチャーチンの接待上手で如才なさに敬服した。

 川路から、貿易の品物について尋ねたところ、日本の窓は薄い紙でできているために寒さにも堪えず適当でない。西洋のようにガラス板にすべきである。また、塩や食料米も輸出したい。その交換品としては、鉱山を開発したい、とのことであった。
川路は、それらの品は、必ずしも必需品とは考えられないので、貿易は認められず、ただロシア船で欠乏している品物だけを渡すことにしたい、と対応した。当時の日本では、ガラスは奢侈なしのものであって、日本人は、ガラスのような奢侈品は日本人の士気を弱らせると疑った。

樺太国境問題は、日本の主張するところはロシアに不利でプチャーチンはこれを拒絶した。
中村や森山は、憶するところなく「我々の言うことで、要領を得ないならば、この軍艦に留まって貴国の都に行き、皇帝に謁見して、その趣旨を伝えたい」といって動かなかった。そこでプチャーチンは条約の草案を作って筒井らに渡した。

ロシア軍艦は、翌年正月8日に出航した。これはクリミア戦争でイギリス、フランスと戦争しようとの形勢になったからである。それは後日分かったことであった。

(コメント:勘定奉行川路らの交渉は、後述のアメリカと交渉した林大学頭と比べると、立派です。日本の窓は、150年前に、プチャーチンが言ったとおり、すべてガラス窓になっています。)

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