鍋島直正公伝 丸山遊郭が日本で有名なのは? 女郎の本業以外の隠された業?ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-2) yama-da 2016年4月28日 丸山遊郭 丸山遊郭が日本で有名なのはどうして? 女郎のもう一つの稼業とは?ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-2) 第4編 開国の初期 第20巻 陸海軍とオランダ・アメリカとの条約改正 第60章 オランダ・アメリカ領事の貿易勧告(安政3年 1856年 43才) ・丸山遊郭が日本で有名なのはどうして? 女郎のもう一つの稼業とは? 1,長崎での会所貿易は、輸入品をほとんど江戸・大阪に回していた。そのため、長崎は、鵜のように梱包した荷物をはき出すだけで、あまり景気はよくなかった。しかし、それでも、唐船の「こぼれ」(後述)荷物の商売で賑わっていた。 唐船が入港する際は、長崎会所の「人入(ひといれ)」から、日雇い人夫を派遣して、荷主の唐人立ち会いの下に、荷物の陸揚げをしていた。 ところが、唐人荷物の梱包は、頑丈でなかった。そのため、荷重に梱包が耐えきれずに破れて、中から品物が落ちることもしばしばだった。日雇い人夫は、これを盗んで懐に入れ、長崎市中で売り払っていた。しかも、その盗品の買い取りには株仲間ができて、商人は、各株の主から卸してもらい、市中で販売していた。これを「こぼれ」という。これは、盗品だが、公然の秘密で、誰も異論を差し挟むと言うことはなかった。 時は寛政のころ、唐船の砂糖漬けの荷揚げをしている時、日雇い人夫の一人が、その桶を開いてつまんで食った。そこで、ほかの人夫も、俺も俺もと、みんなが懐に入れ、半分に減ってしった。これを見た荷主は、自分がこの砂糖漬け3桶を持ってきたのは、その代金で日本の滞在費と帰国の費用に充てるためであったのに、このように半分になってしまうとは、と泣いて伏せた。 これを見た新長崎奉行の家来が、奉行に告げた。奉行はこれを哀れみ、唐人荷揚げに、日本の日雇い人夫を出すのを禁じた。そして、唐人を呼び出し、「今後、荷揚げは唐人だけですべし。」と申し渡した。 唐人は、これを聞いて驚き、何のとががあって、そのような命令を出されたのか、と奉行の家来に尋ねた。そこで、奉行は、「日雇い人夫のやり方があまりにもひどいためであって、ほかに他意は無い。」と説明した。 これを聞いた唐人は、安心して「それでは、元のように日本の人夫を差し出して下さい。日本の人夫は、それほど欲が少なく清廉です。もし、中国人の「苦力(くーりー)」を使うとなると、さらに何倍かを盗まれてしまうかわかりません。」と答えたのであった。 かくて、日雇い人夫の「こぼれ」は、長崎市中の繁盛の品となった次第である。 2,また、唐人館に寄留する船長らは、丸山遊郭の女郎を囲っていたが、この女郎に贈る「どんす」も「こぼれ」の一種であった。この女郎は、半月雇いの条件が厳格な決まりになっており、毎月2人交代して在館していた。彼女らは、贈られた美しいどんすを裁断することなく、そのまま衣服に縫い付け、その中に他の絹・綿衣類を縫いこむのを半月の間のもっぱらの仕事としていた。 交代時には、その服を着用して、門番所で厳重な検査を受けなければならなかった。 決まりでは、身にまとっている衣服と唐人館入館の始めに携帯していた荷物の外は、一切唐人館から持ち出すことはできなかった。そのため、彼女らは、帰りの門番所で、必ず帯びひもを解いて裸体となって検査を受けなければならなかった。それから、ようやく唐人館を出て、百歩ばかりの大通りを歩いて舟大工町の宿に入る慣習であった。 そこで、そのときの女郎は、常に異様の服装をし、奇妙な歩きぶりをなした。これは、できる限りの物を縫い込んだ衣服をまとい、しかも自分の陰部にまで宝玉を隠していたためである。 そのため、唐人館の女郎交代は、長崎の奇観、否むしろ壮観であった。集まった人々は群れをなしてこれを観覧していた。宿には、父母親族待ち受けて、到着とともに普段着に着替えさせ、着用していた衣装を解き放し、中より出てくる品物を取り出して販売した。その中の織物は、反物にこしらえた。 長崎の丸山女郎は、このような有利な稼業であったため、長崎市中近隣の中以下の者は、競ってその娘を女郎にした。そのため、丸山は遂に日本で有名な遊郭となるに至ったのである。 記事の目次は、本ホームページの上の方の「鍋島直正公伝を読む」ボタンをクリック。 共有:クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます) Related posts: 先生に対する師弟の礼(江戸時代、大名と商人の違い)ー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-4-11-3) 先生に対する師弟の礼(江戸時代、大名と商人の違い)ー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-4-11-3) 第1編 公の出生以前と幼時 第3巻 齊直公の政治 第9章 文化の奢侈状態 ・先生に対する師弟の礼(大名と商人の違い… ... 先見・卓識とは何か。=直正公の考えと計画ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-11-38-2) 先見・卓識とは何か。=直正公の考えと計画ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-11-38-2) 第3編 政績発展 第12巻 オランダ使節渡来 第38章 オランダ使節船渡来(1844年弘化元年、直正公31歳)… ... 寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下されるー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-56) 寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下されるー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-56) 第4編 開国の初期 第19巻 長崎陸海軍伝習 第56章 幕府の硬軟両派(安政2年… ... ← 攘夷論は、大阪商人が蔭で資金援助をして仕掛けていたー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60) 明治の長崎キリシタン(キリスト教徒)検挙ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-3) →