九州・山口の海外進出(交流)(1)古代から江戸時代までの歴史
1世紀には、北九州の倭の奴国が中国と交流していました。金印「漢委奴国王」が福岡市の志賀島から出てきました。後漢書に記載。
3世紀には、邪馬台国(卑弥呼)と中国の魏との交流。 魏志倭人伝に記載。
九州は、古代朝鮮と活発に交流していました。倭政権は、朝鮮南部の任那に「日本府」を置き、北九州の那の津を根拠地とします。
527・8年 筑紫君磐井は、新羅(韓国の東側)と交流していました。他方、倭政権は、百済(韓国の西側)と組んでいました。百済と新羅の対立があり、その関係で、百済寄りの倭政権は、筑紫君磐井と戦い勝利します(日本書紀) 。—ーー
当時、磐井は、筑紫のほか肥の国と豊の国(現在の福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県と大分県あたり)を支配していました。磐井の墓は、福岡県八女市にあります。岩戸山古墳がそれです。
562年 任那の日本府は、新羅により滅ぼされます。
660年 百済は滅亡します。そのころ、福岡に鴻臚館(こうろかん)が設置される。
663年 大和朝廷は、百済復興を助けるために、朝鮮に出兵し(約1000艘)、白村江(現在の錦江)の戦いで、 唐・新羅の連合軍に大敗します。
664年 大和朝廷は、唐・新羅の連合軍が、日本に侵攻してくると考え、大宰府を防衛するため、水城を築きます。水城は現在も地名として残っています。水城とは、要するに、土塁で川の水をせき止め、人工的に堀を作り、城の外堀みたいな機能を果たすものです。現在も、その1部が残っています。
同時に、大野城を築きます。現在の福岡県大野城市がある所です。要するに、山の尾根にミニ万里の長城みたいな石垣を築き、その内側に籠城するという仕組みです。山城です。現在もその石垣が残っています。
そのころ、百済が滅亡した関係で、水城建設や大野城築城のため、また唐・新羅軍の追っ手を逃れるため、多くの百済の民が九州に移住してきています。