海外展開のブログ主の整理(備忘録)ーまとめ:九州・山口の海外進出(交流)(5)
1,海外展開は、リスクもありますが、成功すれば、リターンも大きいです。安土桃山時代は、海外取引も活発で、歴史的にも経済活動が活発でした。海外展開の肝は、要は、独占的に安く仕入れ(作り)、独占的に高く売って儲けることができることです。
他の人が、同じようなことをしませんので、独占的に仕入れたり、売ったりすることができます。そのため、もうけも大きいです(ただ、皆が同じようにしたら独占性がなくなり、もうけも少なくなります)。しかし、外国で、外国人相手の取り引きなので、こちらの常識と相手の常識が違います。約束が守られないことも多いです。後で、裁判などしていたら、コストもかかり、勝訴しても強制執行できることはまれです。リスクも潜在的に大きいのです。だから、ほかの人はしり込みします。そこを超えてうまくいったら、リターンもあるのです。
2、需要と供給に関する情報の収集
何をどこで仕入れ(作り) 、どこで売るのが利益が高いかの情報は、その情報源に近いとこにいる者が有利です。
江戸時代、長崎は、中国とオランダからの情報が入ってくる入り口で、そこを警備していた肥前(鍋島)藩は、他の藩よりも圧倒的に有利でした。当時、アメリカ南北戦争での銃の優劣やナポレオンのロシア遠征失敗、アヘン戦争も知っていました。ロシア軍艦が、日本に寄港した当時、日本人のほとんどは、ロシアの場所やロシアが樺太と接することを知りませんでした。
薩摩藩は、琉球を通じて海外情勢を収集していましたが、英国の力を充分知らず、薩英戦争で敗北して、その力を認識させられました。長州藩は、同じく、下関攘夷戦争で、四国連合艦隊から攻撃を受けて敗北し、その力を認識させられました。それ以降、両藩は、攘夷論をころっと捨て、イギリス等から大砲・軍艦等を輸入して、軍備の近代化を図りました。 ーー
他の藩では、このような発想はほとんど出てきようがありませんでした。従来の鎖国(尊王)・攘夷の考えに染まり、それに反する発想は思いもつかず、仮に思い付いても儒教の主流派から、キリシタンの思想と排除されるだけのことでした。そのため、鳥羽伏見の戦いや第2次長州戦争では、薩長の軍備は、幕府軍と比べて有利だったのです。
3,現在、江戸末期と違って、長崎は海外情報収集の入り口ではなくなっています。九州にいては、インターネットでの入手を除いて、情報収集の点では、東京に圧倒的に劣ります。
そうである以上、自ら相手国に頻繁に出向いて、時間とカネをかけて、情報を収集しかありません。そして、相手国と日本と比べて、どういう品物・サービスの需要があるかどうかを自分の目で確認するのが1番でしょう。
同時に、その活動を通じて、時代の流れを敏感に感じとるのでしょう。
九州の企業で海外展開しないのは、それだけの意欲・金銭的余裕・時間・人材をがないからでしょう。
4,上のような活動するためには、人材と、お金がいります。
そのためには、入るを図って、出るを制するということになります。出るを制するは、コスト削減で、ほとんどの企業がやってることです。入るを図るは難しいです。海外展開の前に、それをするだけの財政的蓄えがなければなりません。ギリギリの財政的余裕しかありませんと、海外展開で予想外のことがありますと、それを解決するだけの財政的余裕がないために、失敗という結果になります。
5 .革新的事業とか言うものは、既存の企業では極めて困難でしょう。
政府や地方公共団体主催で、創造的・クリエイテブ事業の手助けをするという企画がよくあります。しかし、政府や地方公共団体というのは、公務員であり、その発想は先例主義です。創造というのは、それまでの組織・慣行・先例になかった事をやるのですから、矛盾しているというか、根本から両立しないのです。ーー
宅急便の創設者ヤマト運輸社長小倉昌男の本にもあるように、小倉社長の企画に対して、当時の運輸省は真っ向から反対していました。官僚が、自らの許認可権限をなくしたり、縮小したりすることには絶対に抵抗があります。そういうところでの企画で、創造的ビジネスモデルとか発生するわけがないのです。
江戸時代でも同様の事で、だからこそ幕府は滅び、明治政府が成立したのです。
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