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薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できた理由?(長州藩) -起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (3)

薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できた理由?(長州藩) -起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (3)

薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できた理由?(長州藩) -起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (3)

薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できたのはどうしてでしょうか? (長州藩) 起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (3)

  高校時代に習ったはずですが、他の藩ではなくこの4藩が、どうして活躍できたのか、分かっていなかったので、調べてみました。

長州藩の場合
1,反徳川の精神風土
長州藩の毛利氏は、豊臣政権時代、備後・安芸(広島県) 、因幡・伯耆(ほうき 鳥取県) 、出雲・石見・隠岐(島根県) 、周防・長門(山口県)の120万石を支配していました。しかし、関ヶ原の戦いで、徳川家康は、毛利氏の本領安堵を条件に大阪城退去を勧め、毛利氏が退去するや、いったんは毛利氏の所領全部を没収したものの、その後、周防長門の2国を与えます。それで、毛利氏の所領は、関ヶ原戦い前の4分の1になってしまいます。
このことから、長州藩には、根強い反徳川の精神風土が芽生えます。

2,財政改革
長州藩では、撫育方(ぶいくかた)と呼ばれる、農産物の増産と販売、港湾の建設、北前廻船などを相手とする金融・倉庫業などで利潤を蓄えていきます。商人からの借金については、長期37年の分割払いに切り替えさせます。士農工商の特権です。現在の民事再生や会社更生で、37年分割払いを提案したら、「ばか者」と一蹴されるでしょう。

・農産物の増産
海面を干拓して新田を造成し、米の増産を図ります。江戸時代には、生産力が50%増大しました。これを大阪に販売して利益を上げます。
・紙の生産を促し、年貢として紙の現物を納めさせ、専売品として集荷を独占し、大阪で販売して利益を上げます。
・塩田を造成して、塩の生産を増大し、利益を上げます。
・櫨(はぜ)の植え付けを奨励し、独占的に買い上げ、ろうそくやびんつけ油なのを原料となる櫨蝋(はぜろう)の集荷・販売で利益を上げます。

3,生産物の中継基地としての下関の繁栄と収益

山陽道

山陽道

  長州藩は、日本海、玄界灘、瀬戸内海に囲まれています。そこで、北海道から関門海峡を回って大阪に至る西回り航路(北前船)と大阪から長崎に向かう航路の流通拠点として、米、大豆、海産物の投資が行われ、営業税として富を蓄えます。
幕末には、薩長交易で、長州からは、米、牛馬、綿、塩、紙などが輸出され、薩摩からは、藍、砂糖、タバコ、鰹節、硫黄などが輸出されます。

 

4,幕末における活躍
長州藩では、吉田松陰の影響の下、尊皇攘夷を主張して、 1863年には、下関海峡で、フランス軍艦・オランダ軍艦・アメリカ汽船を砲撃します。
高杉晋作は、 1862年、幕府の視察団に随行して、上海に旅行し、ヨーロッパの半植民地となった上海を見て大きな衝撃を受けます。また、正規軍を補佐するための下級武士や農民・商人の入隊を許す奇兵隊を作ります。

・1864年、京都御所前で、薩摩・会津と衝突して禁門の変を起こし、敗退します。さらに第一次長州戦争で敗退します。
その後、四国連合艦隊の攻撃で下関が攻撃され、砲台は破壊されます(下関攘夷戦争)。講和会議で、高杉晋作が対応し、その時の通訳を勤めたイギリスの外交官アーネスト・サトウは「長州人を戦争で破ってから、我々はかえって彼らが好きになり、彼らに尊敬の気持ちも起こった」「一外交官の見た明治維新」と言っています。
その後、長州藩は、近代銃を購入し、軍の近代化に努めます。

・1866年 薩長連合が結ばれ、第二次長州戦争が始まるも、大村益次郎、髙杉晋作らの活躍により、長州藩が幕府に勝利します。
・長州藩では、洋学(語学)と兵学(陸軍・海軍・砲術)の吸収と促進をします。
主に、オランダ原書の講読と翻訳をします。医学の研究もやっています。
・吉田松陰の思想は過激で「国全体に関わるように一騒動を起こして、人々を死地に落とし入れることがなければ、日本の国は生まれかわらない」と言っています。現在なら、かっての新左翼、原理主義者、革命主義者として、公安調査庁の内偵の対象となることは間違いありません。
しかし、明治維新が成功し、吉田松陰は奉られています(松陰神社) 。勝てば官軍です。

(コメント:長州藩の場合は、関ヶ原の戦い以降、反徳川としての精神的風土が残っていたこと、新田干拓して米の増産、大阪で売れる紙、塩、櫨蝋の生産、北前船の中継地・流通拠点として下関を整備し、営業税を徴収するなどして財政的富を蓄え、幕末での戦争遂行の経済的能力を持っていたこと、蘭学の研究を進め、それを翻訳し、広く学ばせ、外国の四国連合に敗北するや、自らの軍事力の弱さを自覚し、陸軍、海軍の近代化に勤めたこと、下級武士や農民商人を入隊させる奇兵隊を作って正規軍の補佐として利用したことなどが、活躍の原動力だったのでしょう。
重要なのは、ほかの藩では、そうではなかったということです。どうしてそうでなかったかを考える必要がありそうです。)

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