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事業承継者は尊敬されにくい。ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-9-5)

事業承継者は尊敬されにくい。ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-9-5)

第1編 公の出生以前と幼時

第3巻 齊直公の政治

第9章 文化の奢侈状態

・齊直公の性格と風俗:事業承継者は尊敬されにくい。華美・奢侈は格を上げるものだと考え、華美・奢侈となり、その結果負債増大す。

・藩主の生活は、絶対秘密厳守で、藩主の生活については、藩内でも知るものは少なかった。

・「御性替」(しょうがえ):当時、大名の子が生まれると「御性替」(しょうがえ)を立てていた。「御性替」(しょうがえ)とは、宗教上の身替わりで、同年生まれのお側侍の嫡出子から、選び、大名の子の疾病、災難、厄(やく)を神仏に祈祷し、厄を払うのに、「替人(でいじん)」として、たてていた。そのため、大名の子と同居、同乗し、衣服も同じ、勉強も同じで、常に側にいた。

・齊直公は、部屋の呼び方、職名の呼び方を変え、能興業、参勤交代の行列を旧式の盛大なものにした。 大奥に当たる「お部屋」を拡張し、淫乱の度がすぎたものである。

・古いやり方をひたすら順守し、これを改革しない時代では、手間を省略し、事務を簡便にすることは、家の格を下げ、尊厳を傷つけるものだと言う風習があった。大奥に使える侍や女たちに、その偏見が異にはなはだしかった。そのため、左右に仕える者に、この傾向があり、格式を尊大にし、手間を煩瑣にして、挨拶やお辞儀を仰々しく、不要の経費を要するに至った。

・家の造作にしても、普通品は筑後の大川より購入していたが、華美なのは大阪から仕入れていた。

・当時、佐賀で、華美・奢侈と目せられていたのは、衣服、特に婦人の装飾であった。元来、女性の資質は、もっぱら艶めかしく装うことであるために、ややもすれば、その身分相応以上に飾ることがあっても、これを深く咎(とが)め難いものがある。

・齊直公は、大名癖があり、表には一才一芸ある者を左右に置き、裏には妾、医師、茶人の幇間をおいて、慰(なぐさ)まれた。去れば、藩の財政は、1年1年と苦しくなった。

・特に、藩主の側について江戸に随行した者は、江戸の流行を持ち帰り、佐賀の者に誇り示したために、佐賀の者もこれに影響され、華美・遊惰となった。

・馬術・弓術の型は、能師と体格を同じくし、服飾は儀礼をつくろって華美に傾きやすいため、倹約を主張する人々は、これを蔑視して誹謗した。

・藩主が、江戸で諸大名と交際するには、多数の技能者を集めなければならなかった。例えば、衣装係、納戸係、小道具係、腰物方、髪結い、台所係、刀剣係、意匠係、故実作法係、唄、能、仕舞いなど金持ちを装うには、すこぶる複雑な準備を要する。

・このような華美の背景は?
・佐賀藩は、室町幕府以来の旧藩で、徳川幕府の他の藩よりも、重臣が多く、いわば連邦制であった。そのため、藩主がコントロールするのは非常に難しかった。
例えば、諫早は3万6千石、多久、武雄は、それぞれ2万1700石、須古は、1万石、さらに鍋島藩の分家として小城に7万3,000石、蓮池に5万2,600石、白石に2万1,000石、鹿島に2万石、川久保に1万石領有させていた。その中でも、小城、蓮池、鹿島は大名として列し、佐賀藩から超然としていた。このように、徳川幕府は、諸藩の力が強くならないように策を講じたため、藩主が重臣をコントロールするのは非常に難しかった。

・加えて、鍋島家では、非嫡出子や女子を家老以上の家に養子として結婚させ、姻戚関係を強めていったために、これらの家からすると、藩主に対して、深い尊敬を払わなかった。

・齊直公は、非嫡出子であったために、家督相続をしたものの、鍋島藩の家老は、諫早播磨、鍋島越後、多久長門、鍋島主水など、以前からの執権であったので、(ブログ主:注・なめられないように)強行の態度で臨んでいた。
たとえば、佐賀藩役所が、江戸にいた齊直公に問題がない案件の伺いを立てたところ、佐賀に帰ってから採決すると仰せつけられた。そこで、佐賀藩役所は、異議がないものと公表したところ、齊直公は、このような措置は、藩主の命令をおざなりにするものだとして、譴責処分にされた。これも重臣を管理するためである。

・また、二人の重臣、生野と執行は、齊直公の怒りに触れて、永蟄居を命ぜられた。その翌年、その者が危篤となったので、藩役所から「死ぬ前に、ゆるしてやっては 」 と申し上げたところ、これを却下し、自分の名前で「罪を免ず」とされた。このように、佐賀藩では、重臣の門閥を制御するために、強い態度を取る必要があったのだ。

(コメント:現在の事業承継でも同じような構造は見られます。社長の息子が2代目社長となれば、これまで専務や常務として業務を遂行してきた豊富な経験ある取締役から尊敬を受けることができません。そこで、自分の力を知らしめるために、命令口調になりがちです。社長とその他の取締役との間でコミニケーションがうまくいかず、会社が傾くという例もあります。中には、取締役が別会社を作るということもあります。

なかなか、権力承継は難しいものがあります。江戸時代も現代も変わりません。
また、かなりの格の地位に就いたものの、部下から尊敬されず、そのため、部下たちに見せつけるべく、行事の式次第を仰々しくしたり、華美に盛大にしたりすることも、現在よく目にするところです。そのようにそそのかす業者だけが儲かります。)

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