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伊東玄朴(シーボルトの弟子、蘭学者・蘭方医)は、「馬鹿勘」と呼ばれていたー鍋島直正公伝を読む(1-4-12)

伊東玄朴(シーボルトの弟子、蘭学者・蘭方医)は、「馬鹿勘」と呼ばれていたー鍋島直正公伝を読む(1-4-12)

伊東玄朴(シーボルトの弟子、蘭学者・蘭方医)は、「馬鹿勘」と呼ばれていたー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-4-12)

第1編 公の出生以前と幼時

第4巻 公の幼時

第12章 公学齢の初期

・佐賀蘭学の起こり
・伊東玄朴(シーボルトの弟子、蘭学者・蘭方医)は、「馬鹿勘」と呼ばれていた。

1,佐賀県神埼郡に執行勘造という者がいた。執行は、1822年(文政5年)、23歳の時に、島本龍ショウについて、蘭学をおさめたが、優れて記憶力が良く、将来性があるので、島本は、蘭語の通訳者、猪俣伝次右衛門に紹介して学ばせた。それは、シーボルトが長崎で、蘭学を教え始めたときであった。

執行は、学資に乏しかったので、寺に寄宿し豆腐のカラを弁当にして、猪俣の下に通学していた。猪俣は哀れんで、小使いにしてやった。執行は、同門の学生が遊びに浸っている中で、ひとり蘭学に心をもっぱらにしていた。外の学生は、執行が蘭学に余念がないのを笑って、「馬鹿勘」と呼んで軽蔑した。そのころ、シーボルトが、長崎奉行の許可を得て、鳴滝に校舎をもうけ、医学・薬物学を講義する許可を得た。執行も、猪俣の許しを得て、通学し才能を伸ばす機会を得た。

1826年2月、シーボルトがオランダ使節とともに江戸に赴くや、猪俣は、息子源次郎、娘「てる」と執行を連れて行った。その途中、猪俣は、沼津で亡くなった。シーボルトは、3月を経て、長崎に帰った。源次郎は、蔵前の天文方宿舎に住み、執行とともに蘭学を講義した。執行は、その後、名前を「伊東玄朴」と改め、江戸で、蘭方医術を広め、幕府にも出入りし、世に有名な人になった。「てる」は、その妻である。

 日本に蘭学の発展をさせたのは、実にシーボルトの力である。佐賀に西洋学の開かれる気運を促したのも、このシーボルトの力である。

2,しかし、その後、1828年、シーボルト事件が起こる。
高橋作左衛門は、シーボルト所有のナポレオン戦争記という本を見て、翻訳すべく、譲り受けを懇願する。シーボルトは、日本地図との交換を希望し、高橋は、10数種類の地図を渡す。その時、シーボルトは長崎にいたので、江戸から長崎へ帰郷する伊東にその地図を託す。

シーボルトが帰国する際、その地図が幕府に見つかり、事件が発覚する。 高橋は、死罪となったが、伊東は、託された荷物の中身を知らなかったと言うことで無罪となった。このとき、平民としての執行ならば入獄になると言うことで、佐賀藩家来 伊東仁兵衛の次男 伊東玄朴と名前を変えたのである。  この事件以来、幕府は、蘭学者を目して、売国奴と憎悪し、佐賀でも蘭学は衰えた。

3, もう一つ、奇人の話がある。佐賀の六座町に、銅細工の子がいた。素質としては鈍かった。中学生頃、この子と八百屋と町人の子が仲良く、話をした。町人の子は「町人に生まれた以上は、土蔵作りの家に住まなくては甲斐性がない」と言ったのに対し、八百屋の子は「一生、天秤棒をもって、野菜を売り回るまでよ。」と言った。銅細工の子は、侍になる、といったので、二人は「馬鹿は馬鹿を言うよ」と言い放った。

銅細工の子は、その職を辞め、医者の小使いとなり、暇に漢字を覚えようと刻苦努力したが、鈍才で進まず、困り果て、蘭書は26文字を記憶すればよいと聞き、島村龍ショウの小使いに住み替え、努力してついに原書を読むことができるようになった。あとに、山村良哲と称して町医者を開業し、蘭方医として有名となり、嘉永年間(1848年)、執政鍋島安房の侍医に招かれた。前にあざ笑った八百屋は、人の奮発は恐ろしきものかな、一人はすでに倉を建てて住み、馬鹿の彼は侍となりたりと驚歎した。

(コメント:私も、「おから」を食べて頑張りましょう。)

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