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「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」(中公新書)を読む(1)ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-31-93-番外)

「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」(中公新書)を読む(1)ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-31-93-番外)

第6編  大政維新
第31巻 東北征定
第93章 東北平定す(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)

1,負けた賊軍ー会津藩士から見た戊辰戦争とその戦後処理の歴史です。会津藩士の子弟で、賊軍として流刑の憂き身にあい、その後陸軍大将になった柴五郎の手記です。
会津藩士に対する過酷な流刑の処置が書かれています。一気に読まされました。力強い文章です。事実の持つ力でしょう。
会津藩士の子供の目から見た薩長の理不尽な処置に対する怒りが綴られています。芋侍、大久保利通、西郷隆盛に対する怒りに満ちています。

藩主松平容保が、故郷会津で謹慎しているにもかかわらず、薩長は、会津に対して、朝敵だ、賊軍だと汚名を着せて討伐したことに対する怒りが満ちています。

2、 柴少年が十歳の時、会津若松城は落城し、祖母、母、姉、妹は自刃します。父と兄二名は官軍の収容所に収容されます。柴少年は、叔父の家に預けられ、百姓姿で過ごします。収容所より訪ねてきた兄は、この有様を見て驚き、「叔父上、失礼ながら、 このざまは何ごとなりや。弟五郎、姿は百姓なれど柴家の息子なり。・・武家の子たること変わらず。いかなるご所存なりや。ご意見受けたまわりたし。」「自ら好みて身を落とす必要はなし。」と 叔父を強く責めます。

3, それから、柴少年は、父や兄と共に下北半島の斗南(となみ)に流されます。これが痩せた土地で、半年は雪に覆われる寒冷のなかで、文字通り過酷な生活を余儀なくされます。
氷点下15度の中で、板敷きにむしろを敷いて寝ます。米俵の中に寝ます。玄米の薄い粥に馬鈴薯などを加えて食べます。餓死・凍死を免れるのが精一杯です。餓死しないように犬の肉を食べます。無理して食べるが喉につかえて通らず吐き気をもよおします。これを見た父は「武士の子たることを忘れじか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫たりともこれを食らって戦うものぞ。・・・ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ。」と叱られます。

4,さらに、会津藩士が会津藩復興のために過酷な状況下で耐え抜いているとき、藩主松平容保(かたもり)は、藩士を置いて、華族として東京に去ってしまいます。それまで会津藩復興を夢見て耐えていた藩士たちは、荒涼たる原野に取り残され、その支柱を失って、前途に迷い、天を仰いで嘆息します。絶望の中に過ごします。

これは、第二次世界大戦のインパール作戦を思い起こさせます。敗戦の色合いが黒くなったとき、軍部の将校たちは、部下を置いてビルマの大河イラワジ河を渡って戻ってきませんでした。残された兵士たちは、日本に帰る術はありませんでした。

5,その後、柴少年は、東京に上り、親戚に寄宿を求めても「二度と来るな。」と乞食を追うように断られます。飯炊き・下僕として生活の道を探ります。それから、幸いにも、陸軍幼年学校の前身・陸軍幼年生徒隊の入学試験を受けて入学し、新たな道が開けます。

6、この本には、感情的な誇張した「臥薪嘗胆」「隠忍不抜」とかの表現はありません。人間の「誠実」さを感じます。
読後の感想は、「クオレ」を読んだ時に似た感想です。「クオレ」は、もイタリアに対する愛国心に満ちていますが、この本も、会津藩に対する愛国心に満ちています。

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