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佐賀藩江戸末期の医学・名医及び風俗(遊郭・富くじ)ー鍋島直正公伝を読む(2-7-21)

佐賀藩江戸末期の医学・名医及び風俗(遊郭・富くじ)ー鍋島直正公伝を読む(2-7-21)

佐賀藩江戸末期の医学・名医及び風俗(遊郭・富くじ)ー鍋島直正公伝を読む(2-7-21)

第2編 公の初政治

第7巻 藩政拡張の困難

第17-21章 藩政拡張の計画、医学、風俗

・佐賀藩江戸末期の医学・名医及び風俗(遊郭・富くじ)

1,佐賀藩に、医学館を設立するについての古賀穀堂の意見
 ・今時の医者の言い分に、「医者はさじの先でこと済む」(さじかげん)と言う者があるが、学問なくして名医になるのは覚束ない。
 ・医者には、外科、小児科、口中科、眼科、あんま、本草科など種々の科あり。残らず稽古ありたきなれど、家伝・秘伝などという。
2,医学館を設立したが、授業の実益を上げることがむずかしく、費用ばかりかかり、さしたる進展はなかった。しかし、西洋医学に接して変化が生じ、名医も出てきた。
 内科には、西岡、牧、古賀等、外科には、町医  納富 春入あった。
 納富は、名声が高く、
 切腹をしそんじたる者の腸を包み、
 陰嚢のこぶを切断し、
 婦人の陰門から、情夫が挿入した木片を抜き取る
 などあって、世間は、これを春入の3奇術と伝えた。
 古賀穀堂の「痔花」を切り取ったのもこの人である。

 

3,諸富津(佐賀県諸富町)の遊女禁止。

大川(昇開橋)

大川(昇開橋)

米相場をおく諸富の対岸・久留米の榎津(大川市)も、同じく米相場を置くほか、遊郭を設け、抱き女を置いて接客し、誘客が訪れ、商船も多く繁盛していた。
 佐賀藩は、去年遊郭を禁止したが、諸富で遊郭を禁ずれば、なお一層衰微して、富は対岸の大川に吸収されてしまうとの恐れから、諸富だけは特別に許可していた。
 しかし、佐賀人は、この種業界には不慣れで、そのため性病も少なく、仮にあったとしてもよそからもらってきたもので、加えて盗賊少なく、村では門も雨戸も閉じることはない。女性も、比較的姦淫しないと言われている。文政年間ころは、佐賀市内にも、紺色の日傘をさしてなまめかしく私設売春宿に出入りしていたのがいたが、これを「オッタボー」と言っていた。(売春婦を)「発見したよ」の意味である。これほど少なかった。
 直正公は、政道の趣旨に叶わない、と言って禁止された。
 なお、熊本、柳川も、比較的遊女は少ないと言っても、皆無ではなかった

4,富くじ、「講」も禁止された。

 これについて、重職は、講の禁止に対して藩の財源が枯渇する、と主張して引かず,そのままになっていた。しかし、公は、これを政治の本質に背くものとして、廃止した。ただし、禁止に苦情が多かったことを考慮して、猶予期間をおいた。
(コメント:以前、切腹し損ねた場合、介添人が断首すると聞いたことがありましたが、必ずしもそうではないようです。
 昔も、大人のおもちゃみたいなのがあったことがわかります。
 最近、カジノ法案(特定複合観光施設区域整備推進法案)が話題になっていますが、問題は、江戸時代と変わっていません。経済効果を重視するか、風紀を重視するか、今のカジノ法案の争いにも通じます。)
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