傲慢、怪気炎を吐く直正公ー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-16-48)
第3編 直正公 政績発展
第16巻 新砲台成る
第48章 長崎警備増築・防衛工事の継続(嘉永5年 1852年 39才)
傲慢、怪気炎を吐く直正公
・正月元旦、直正公は、江戸屋敷に、仙台の伊達慶邦候やその他親交の大名を招き、学者・書家を陪席させて、文墨の宴会を開催した。 その酒の席上、直正公は、怪気炎を吐いた。その様子を、彦根の儒学者中川が国老の宇都木に宛てた手紙が残っていたので、これを紹介する。
「・・・・肥前鍋島邸で、諸侯の宴会があった。肥前候(直正公)が、書家の意川院に、枯れ松を一本書いてくれるように頼んだ。それを書き終えた後、続いて、その下に水流を書き添えるように頼んだ。
そのあと、肥前候は『松平(徳川氏の元の氏)の松も枯れ申し候、徳川の流れも源なく相成り候。かくの時、我ならで、松にコエヲナシ、水にも流レを添えんか』と言って、大筆に墨をつけ、ベタベタと絵の上に墨をツケラレ候。
一座は興ざめし、伊達候独り冷笑いたしおられ候。書家意川院は、席を立ち、「さて、申し上げ候は、拙者が長袖ならずんばこのままにはスマサジ」と言ったそうである。これは、傲慢か、憤激のためか。有志の者は、諸侯の中にこのように徳川氏を軽蔑する者が出てきたかと、眉をひそめたものである。
この話は、極秘の話しとしながら、ちょっと漏らしたもので、大笑いした次第である。貴殿にもちょっとオモラシした次第である。まったく、譜代の旗下の人(直正公)には畏れる人もなく、大諸侯に傲慢の心を生じたもので、嘆かわしいことである。」