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北海道開拓と樺太問題ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-33-97)

北海道開拓と樺太問題ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-33-97)

第6編  大政維新
第33巻 文明知識の開拓・版籍奉還
第97章 北海道開拓、 京浜鉄道敷設(明治2年ー1869年 56才)

北海道開拓と樺太問題

・6月、直正公は、蝦夷地開拓督務(後日、開拓使長官に名称が変わる)に任命される。ただ、健康が勝れず、次官・東久世卿が、蝦夷に出張することとなった。 開拓使判官には、岩村右近、島義勇も任命された。

そのころ、ロシア人は、千島を占領するような姿となり、樺太はアイヌの住居地なのに、生業を営むのは勝手だとして、事実上自国領として、移民を送り、さらに兵営を設置して圧迫するようになった。そこで、ロシア人とわが日本漁民との間には、口論が絶えなかった。

直正公は、長崎の西の国境と蝦夷の北の国境警備、さらには南洋拓殖とは、我が国の重要課題であるとの考えをもっていた。  蝦夷地開拓は、屯田兵や要所の警備など、失業していた士族の雇用を生み、開拓に携わる士族・農民や商人の移住を促進させ、水産業を起こし、富国の道となる、と問題提起した。  また、ロシアと同じく、国境近くに官庁を置き、要塞を備え、常に前進する形を取り、国を守る、という戦略をとらざるを得ないとした。

しかし、当時の世論は、外交に暗く、そのため、国境に兵士を配置するのはロシアに対する挑戦と思った。そこで、まず、宗谷あたりに官庁を置き、樺太に官庁を設置するのはロシアに難を構える危険なことであるとした。しかも、直接そのように言わず、経費が不足していると言い訳をして逡巡した。

実際、去年、ロシア人は、日本が内乱状態で疲弊しているのをうかがい、大泊(樺太南部=現在のコルサコフ)に侵入し、アイヌの住み家を焼き、漁場を略奪し、遂に兵舎を建設するなど傍若無人な振る舞いに出ていた。

その冬、外務大?(だいじょう)丸山は、士民数百人を連れて樺太に渡り、ロシア官吏に対し、「ここは、奥蝦夷といい、蝦夷人の領地であり、これを追い出して占拠するのは不法なり。」と抗議した。

ところが、ロシア官吏は、これを承知せず、我が官吏を拘留して、他を追い返した。 そこで、開拓使次官・東久世自ら北海道へ赴き、朝廷でも議論が沸騰した。しかし、大国ロシアとことを構えるのを恐れる朝臣らは、優柔にして決断することが出来ないまま、樺太はロシアの占領する結果となった。

当時の鎖国思想の持ち主は、外交を知らず、外交問題jは、相手国に兵を構えるかのように恐れ、外交交渉はその折衝に多数年かかるもので、簡単に兵端を開くものでないことを知らなかった。  直正公は、もし、このとき、外交交渉していれば、国境問題を有利に運ぶ方法はあったに、との考えであった。

佐賀の田中、武富は、大阪に住まい、大阪、下関、日本海を経て、北海道への航路を開拓していたので、これを利用し、北海道の棒鱈、数の子、昆布を輸入し、佐賀からは米・酒を輸出して利益を得た。武富の親戚は、北海道へ渡り、佐賀村を形成するほどであった。  これらの漁労を担うのは、アイヌ人の働きによる。内地人は、アイヌを蔑視するが、彼らは剛胆で、たくましき民族である。彼らの純朴につけ込み、わが内地人が、彼らを卑劣にもだましていた。例えば、魚介類と米を交換するとき、量る升を異にしていた。武富は、こんな詐欺を働いていては、アイヌの好感情を失うといって、正確な升を使うよう指示し、その事業は大いに繁盛した。

(コメント:ロシアの本性が出ています。) ・ これまでの記事は、メニューの「鍋島直正公伝を読む」をクリック