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危機をチャンスとす、陰きわまれば、陽に復すー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-8-23-1)

危機をチャンスとす、陰きわまれば、陽に復すー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-8-23-1)

第2編 公の初政治
第8巻 二の丸 焼失
第22章 士政振励
第23章 二の丸(お城)焼失

 1,江戸時代の陣・戦術は、武田・上杉等の戦術を基礎としていた。
直正公が、陣の予行演習を命じた当初(1835年、公21歳)、軍の服装は平服・股引と命じていたのに、袴を着た者も多く、演習中にも雑談が絶えずやかましく騒ぎ、弁当も香のものでよいのに酒・肴まで用意してきていた。
そこで、「少しでも命令・号令に背く者あらばきつく申しつけ、容赦なく処分すべし。我が小姓の中に左様の不心得者あらば、少々は重く処分して見せしめとすべし」と言われ、2回3回と演習を重ねる内、よくなった。

2,陰きわまれば、陽に復すべく、藩政は、老公の手を離れて、直正公の手に移った。
1835年、二の丸が焼失した。これを機会に、これまで、いちいち斎直公(父)の意見を伺っていたのを、そのいとまがないと言う理由で、「心外ながら実行の上、事後報告したし」と申しあげ、直正公は独断で裁決ができるようになった。これで直正公の改革の思いは、初めて遂げられる段となり、藩のためには喜ぶべき事との話も聞かれた。
従来、斎直公(父)は、隠居して江戸に在京していたときも、政治の方針決定に関与していた。直正公が若くあまりに改革を進め、遂には先祖の慣習法まで犯すのではないかとの思いもあった。

例えば、些細なことであるが、直正公が、「先祖からの秘書」の虫干しをなす際、斎直公(父)に、目付にも手伝いさせてよいか許可を貰うべくお伺いを立てたところ、「秘書はほかにみせてはいけない」規定で、厳重に遵守すべしとして、当主自ら虫干しをすべしと言明された。人事の手続きについても、色々指摘されていた。
このように、直正公が、時代の変化につれて、従来の方法を変えようとするときは、大変な苦労があった。
上杉鷹山も、上杉の江戸邸が焼失したとき、これをチャンスとして華奢の風潮を直し、倹約令を徹底したと聞いている。

・当時、藩の役人に就職するには、銀(銭)・米を贈る多寡で任命が決まるようになり果てていたが、今後は藩校弘道館の勤怠・学業の成績等によって選定するように定められた。

3,二の丸建設の費用による財政悪化
二の丸建設の費用に充てるため、5年に亘り、知行米を相続米渡りとして、減額し、藩の役人も3分の1にリストラし、村の行事も「浮立(村の田楽)」のみ許し、ほかは禁じた。
なお、相続米とは、家族の生活存続に当てる米(最低限の生活)、の意味である。
直正公自身も、食事は、汁物があれば向かい(おかず?)をなくし、向かいがあれば汁物をなくし、夏は葛布、冬は木綿とし、従来の5分の1~3分の1に節約された。
参勤交代の行列も数百人減らし、邸宅がでも木綿の服を着用した。

・また、江戸の斎直公(父)に参勤交代の猶予を願い出たが、許可されず、結局幕府から、2万両を今年、来年と拝借できるようになった(後述)。

・城も、もっぱら耐久を主とし、華麗を用いず、堅牢に作るべしと命じられた。

(コメント:事業を2代目が承継する場合、先代社長の隠然たる支配が存続することがあります。株式会社の委任状争奪合戦もよくあることです。
昔も、今と同じこと、いや、今以上に親の支配は強く、藩運営は苦労があったことがわかります。直正公は、事業所焼失という危機を好機到来として、創業社長の支配を脱しました。)

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