危機管理(佐賀藩の場合)とモリソン号事件ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-10-31)
第2編 公の初政治
第10巻 天保の飢饉、将軍の代替わり
第31章 長崎警備
1,危機管理(佐賀藩の場合)=長崎から白帆注進(白帆の外国船が見えたときの急報)を得た際の危機管理の仕組み。
・白帆注進とは、長崎港外の山頂に設定した見張り番が、望遠鏡で西洋船が100海里まで進入してタケノコ形に確認するや長崎に合図するをいう。その件の封書を作り、大至急で佐賀に連絡する。その方法は、走れるだけ走るという無時(むとき)早走りで、長崎~佐賀間30里を6時間以内で到達する。明け方の便は夕方に、夕方の便は明け方に到着する。
これをうけて、佐賀の10カ所の寺社は、鐘と盤木を交互に1時間ほど3回に亘り、つき立てる。 これを聞いた士は、走って大組頭の家に集まり、大組頭は城に集まり、急報の内容を聞き、帰って士に説明し、オランダ船かどうか第2報を待つ。一番手は出発の準備をして、2番手や残りの者は帰る。
商船の時は、静かに鐘と盤木を鳴らす。
・自然異変の際は、石火矢を数回打つ。
2,1837年、アメリカのモリソン号が浦賀と鹿児島に渡来した。
難破してアメリカに漂着した日本人4人が英国船でマカオに送られ、アメリカのモリソン号が、漂流日本人を乗せ、警戒されないように武器をもたず、望遠鏡、晴雨計や商品見本を積んで、貿易の開始と伝道のために、浦賀にやってきた。
しかし、浦賀奉行は、これに砲撃し、鹿児島でも砲撃した。モリソン号は、日本人漂流民の送還もできず、マカオに戻った。
・このとき、オランダ人は、貿易独占の利益を奪われるとして、事実に反して、英国軍艦が日本の船舶を拿捕する計画があると幕府に密告した。このとき、幕府では、防衛のために艦船建造の意見が出たが、老中水野らは、「鎖国の厳命に違う」と言うことで、採用しなかった。
(久米は言う。アヘン戦争の中国と同じ危険に逢わなかったのは幸運としか言いようがない。)
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