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咸臨丸でアメリカへ行った経緯と顛末(気抜け)ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-67)

咸臨丸でアメリカへ行った経緯と顛末(気抜け)ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-67)

咸臨丸でアメリカへ行った経緯と顛末(気抜け)ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-67)

第4編 開国の初期
第22巻 条約頒布 公武合体の起こり
第67章 井伊大老遭難(蔓延元年 1860年 47才)

・幕府 米国へ使節を派遣す(咸臨丸でアメリカへ行った経緯と顛末(気抜け)

(・ 直正公は、この年正月、病にて年賀に登城できず。)

1,前年、日米間の条約締結の際、堀田が米国公使ハリスに、アメリカ本国へ使節を派遣し、ワシントンで条約批准の本書を交換すべし、と言い出したところ、ハリスは痛く喜び、その旨条約の末尾に付記することとなった。これは、井伊の「幕府は海外に雄飛して貿易をするべきでだ」との考えを実現させようとしたことによる。
そこで、前年末、外国奉行新見などを使節とし、目付小栗上野介をつけ、米国の軍艦「ボーハタン」号で、アメリカへ航行することになった。

2,日本も、この際、海外渡航の道を開くべく、日本の咸臨丸を護衛としてつけた。艦長は軍艦奉行木村摂津守、指揮官は勝海舟であった。直正公は、佐賀から本島喜八郎ほか2名を使節の随行員とし、ほか3名を咸臨丸に乗り込ませた。
当時一般の人は、これを冒険とし、米の飯を断ち、なまくさい肉で命をつなぎ、万里の彼方の紅髪・緑眼の西洋人と交わるは、献身的忠心であるとうわさした。 彼らは、希望したのではなく、戦争に赴く気持ちで乗船したのであった。
これが、日本における洋行の始まりである。

3, 1月12日、咸臨丸の一行96人は、品川を出港した。難破した船のアメリカ人11人も便乗した。操船、船のエンジン機関運転とも、日本人10人で操縦し航海した。船が小さく、行程が長いため、蒸気を使わず、帆での操縦に努めた。21日目に、暴風雨となり、乗員は疲労を極めた。ハワイでの水燃料を補給せず、航海中は厳重に節水し、水は飲料にのみ使用した。35日目の2月26日、サンフランシスコのゴールデンゲートに入港した。

4,他方、アメリカのボーハタン号は、アメリカ人が操縦して、日本人使節73人を乗せ、2月10日、横浜を出発し、ホノルルに立ち寄り、3月7日、サンフランシスコに入港した。同船では、日本風の寝食で、アメリカ人による周到な心遣いであった。そこから、メキシコのデアヌビックで上陸し、さらに、メキシコ湾でアメリカの軍艦に乗り移り、キューバ、フロリダ沖をとおり、ワシントンに到着した。

・ もっとも、アメリカ政府も、白人・黒人のコック数名を差し出した。しかし、彼らは日本食の知識がないため、飯を炊く釜が沸騰すると水を足してはいけないのに、釜が焦げるとか破裂するとかジェスチャーで示しながら、水を加えた。はては、バターやチーズを加えた。よって、数回、飯を炊き直した。
食事の食卓では、テーブルに砂糖が盛られていたので、甘党の日本人連中がそれをご飯にまぶして食した。それを見たアメリカ人コックは、日本人は米飯を砂糖にて調理すると勘違いし、今度は炊飯釜の中に砂糖を入れ、またまた飯を廃棄することになった。

 デアヌビックは、伊達政宗の使節であった支倉(はせくら)常長が上陸して、イスパニア(スペイン)に渡った土地である。そのとき、一行の半分をここに留め置いたが、あとで帰りの便がなくなり、そこで一生を終えた。その子孫が今なお居るという。

5,当時のカリフォルニア州は、金鉱の発見で移民が多く、人口40万人、サンフランシスコは人口6万2千人であった。当時の新聞は、次のように記した。
「日本人は、清潔で、まめに働き、頓知を解し、悟り早し。役人は黒の羽織に袴を着て、草履を履き、漆塗り鞘の両刀をさし、髪を鬢付け油で結ぶ。船将は威厳に富み、家来はお辞儀してその命令を受け、みなオランダ語を用い、食料は米、魚、野菜を食し、自由に箸を持って食す。茶・砂糖を好む。
彼らは、市中を歩き、喫茶店で出された料理のスープ、肉鳥などを気味悪げに食した。フォーク(肉刺し)になれない様は、子供がこの扱いに難渋するがごとく、甚だおかしかりけり。」

福沢諭吉も、その日記に、日本なら高価で燃えるような緋色の絨毯が敷き詰めてあり、アメリカ人はその上を土足で歩くので、もったいない心地であったが、自分もためらいつつ同じように歩いた、と記している。

6,当時、サンフランシスコには、鉄道はなかった。工場に案内され、通信機、砂糖工場の真空大釜など、我らが知らぬと思って懇切に説明してくれたが、こちらは多年研究しており、驚かなかった。ただ、ゴミ箱に缶詰のブリキ缶や鉄片が放棄してあり、アメリカ人が(高価な)鉄をゴミのように捨てるのを不思議に思った(コメント:当時、日本は鉄が乏しく高価で、お寺の鐘を幕府に提出させたほどです)。
なお、咸臨丸がいた1ヶ月の間に、4・5艘の船が横浜、函館に向けて出航したのには驚いた。
咸臨丸の帰りは、ホノルルに寄り、食料薪水を積み、4月29日到着した。

7,一方、ワシントンに着いた幕府使節は、ホテルでも、ベッド・椅子を取り去り、屏風をたて、部屋を階級別に区画し、夜具はもとより、食事も味噌、醤油、漬け物まで、日本から持参したものを用いた。
アメリカ政府は、5万ドルの接待費の支出を決議して、はなはだ優遇した。使節は、ホワイトハウス(白館)で大統領と謁見し、議会に臨んだ。服装は階級別にまとい、槍・弓の行列を整え、ペンシルベニア大通りを練り歩いた。群衆は垣根のごとく見物し、けが人を出すに至った。当時のアメリカ東部は、鉄道も縦横に敷設され、交通の便利、貿易・製造の規模の大きさは、日本人の肝をつぶした。

使節は、批准条約を交換したあと、議会に出席した服装で、ニューヨークの街へ来てほしいとのことで、これを承知した。ニューヨークのビルの窓窓は、ブドウの実のように列なり盛観であった。
使節は、帰路、喜望峰を回り、インド、シンガポールをへて、6月末、横浜に着いた。
しかし、日本では、桜田変後の後で、攘夷論が勃興し、折角の使節の米国旅行による観察も「気抜け」となった。

8,なお、この旅行で、西洋文明は英語を話す国民の中に勃興し、オランダ語がほとんど存在を認められない状況を観察したためもあって、ここに蘭学は急に衰え、英語が流行となった。一行の中で英語を話すことができたのは、土佐の中浜万次郎だけであった。そこで、蘭学学習者は、乗船中、アメリカ人のキャップテンからに英語を習った。

(コメント:母国を離れている間に、母国の政治情勢が変わるということは、歴史で時々聞きます。咸臨丸もそうで「気抜け」であったとは知りませんでした。歴史の本では、使節らのアメリカ旅行が、帰国後すぐに日本の近代化に役立ったという説明です。
この旅行から、蘭学が衰え、日本の英語学習が盛んになったことも初めて知りました。
なお、久米邦武編修「特命全権大使米欧回覧実記」全5巻(岩波文庫、現代訳は慶應義塾大学出版会)も、大変おもしろいです。

・現在(平成28.6.29)、イギリスのEUからの離脱が決定し、経済は不安定になっています。つい先だって、NHKでしたか、「日立」がイギリスに進出して、イギリスからEUへ鉄道・列車を輸出する事業計画が着々と進捗し、これを成功例のように好意的に取り上げていました。ところが、イギリスのEUからの離脱で、状況は一転しました。日立が悪いわけではないのですが、EUへの輸出に関税がかかり、イギリス進出の事業計画、意気込みは裏目に出ました。これも「気抜け」の一例でしょうか。)

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