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増上寺の僧となり、師匠の遺産を盗み、女郎を身請けし、遊郭を経営した武雄の人ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-6)

増上寺の僧となり、師匠の遺産を盗み、女郎を身請けし、遊郭を経営した武雄の人ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-6)

増上寺の僧となり、師匠の遺産を盗み、女郎を身請けし、遊郭を経営した武雄の人ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-6)

第4編 開国の初期
第19巻 長崎陸海軍伝習
第58章 癸(みずのと)丑(うし)変後の参府(安政2年 1855年 42才)

・増上寺の僧となり、師匠の遺産を盗み、女郎を身請けし、遊郭を経営した武雄の人が、安政の大地震で活躍

  ・10月2日、大地震あり(安政大地震)。死者4千人余。佐賀藩の江戸屋敷でも死者34人。

その時、注目となったのは横尾龍助である。横尾は、当時、千住に住んでいた。武雄の出身であった。元は、浄土宗の僧で、増上寺にいたころ、師匠の僧が亡くなり、その遺産の金を盗み、それから品川の女郎と懇ろになり、遂にその女郎を身請け(落籍)して夫婦となった。それから、千住の遊郭で売春業を営み、冨を蓄えた。もちろん、佐賀藩の法律では、死刑に処せられるべきもので、佐賀藩江戸屋敷には出入りを禁ぜられていた。

横尾は、いつか、藩邸出入りを許される機会はないかと待ち望んでいた。そこに、この大地震で、佐賀藩江戸屋敷が被害にあったのを目撃した彼は、震災後で小屋に使う木材が乏しくなるのを見越して、木材を献上し、そのため、佐賀藩では、ほかの所に先立って、仮の小屋を作ることができた。

・当時、掘っ建て小屋に住んでいた市民は、幕府閣僚について、「あべ(阿部)なくても、みと(水戸)もなくても いい(井伊) ほった(掘田)てでいい。」とらくがきした。これは、水戸、阿部はなくとも井伊、掘田ならば可なりという意味で、掘田が老中となり、阿部が外交に当たることになった。

・幕府は、水戸公が積極的に推進する巨船を製造したが、ボルト・ナットもなく、釘での固定も十分でなく、「朝日丸」と美名を授けられたが、江戸庶民からは、「厄介丸」といわれ、「動かざる御代は動きて、動くべき船は動かぬ みと(水戸)もなきかな」とあざけった。

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