大塩の乱・徳川斉昭・佐藤一斎・英国産業革命の影響ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-9-28.29.30)
第2編 公の初政治
第10巻 天保の飢饉、将軍の代替わり
第28章 総説:1837年 直正公24歳
当時の賢君:米沢の鷹山、白河(福島県)の松平定信、水戸の徳川斉昭(直正より14歳年上)、薩摩の島津斉彬(直正より4歳年上で、外従兄弟で親交深し)、宇和島の春山がいた。
・佐賀での1828年大台風の被害額:31万石(年収の10分の9に相当)
第29章 凶荒賑給と風教振励
・伊万里有田の賑給(ほどこし救う)
有田は陶磁器を産出し、伊万里はその輸出港で海産物の通商をなす。両地は、他の地と異なり、佐賀藩の統治方法を異にしており、両地とも繁盛し、華奢で分限不相応の生活をしている。上中の家は、士に匹敵する門地である。
しかし、天保の飢饉で不景気となり、直正公は、拝借金(融資)を行った。
・大阪の大塩騒動
大阪町奉行の与力・大塩平八郎は、当時、言語に絶するほど腐敗した大阪で、餓死者が出る状況であったので、赴任してきた町奉行跡部山城守に、窮民救済を建白した。ところが、町奉行は、「江戸に伺いの上でなくては、計らい難し」と答えた。大塩は、さらに息子に条理を強調した書面をもたせたところ、町奉行は「大塩は発狂したか!」と斥けた。 大塩は激怒し、2月19日、決起した。大塩の乱である。焼いた神社仏閣・大名屋敷・豪商及び民家は、1万8250戸に及んだ。大塩は、隠れていた家に火を放ち、自殺した。
第30章 幕府から直正公へ統治について褒賞あり。
・4月、将軍が、家斎から家慶へ替わる。
・この1837年、イギリスでは、ビクトリア女王が即位し、ロンドンからバーミンガムまで鉄道が敷設され、蒸気船で大西洋を15日間で横断し、交通手段は一変した。
これまで、出島には、オランダ船が貿易風による帆船で渡航してきていたため、冬にはやってこなかった。しかし、蒸気船の発明で、そうではなくなった。(コメント:この蒸気船の影響は非常に大きく、米英仏露がやってきて、日本は開国に至ります。産業革命の影響の始まりです。)
そのころ、イギリスは、中国にアヘンを輸出するようになった。
・江戸時代、幕府は、諸藩の謀反を恐れ、諸藩が密かに武器を買い入れると聞けば、重大な制裁を加えていた。
・1831年、長崎の町年寄・高島秋帆は、オランダ船のキャップテン(船長)デヒレニューに就いて、銃砲術を学んだ。直正公は、密かに、佐賀藩の鍋島十三右衛門、ついで、坂田三十郎に、守秘義務誓約書を書かせたうえ、高島から、西洋秘術を学ばせた。
そして、幕府も高島を採用したこともあって、直正公も、「異邦の火術心得なくてはあいかなわず」 という理由で、異邦の武器を注文した。
・1838年、直正公は25歳。
・徳川斉昭とは、親しく交際していた。その家臣・藤田東湖(水戸学)は、直正公の虚飾のなさに感服し、佐賀藩にたびたび出入りした。
徳川斉昭のエピソード:
斉昭は、往々にして人の腹を探るような挙動が多かった。当時の著名な学者である佐藤一齊(岩波文庫・「言志四録」の著作あり)が、つてを求めて斉昭に面会する際、相手は高貴な殿様と言うことで、絹の紋服に絹の袴で訪問した。他方、斉昭は、木綿に小倉袴という質素な服で面会した。佐藤は、自らの衣服の華美を恥じて長く面会することができなかった。
次回の面会では、佐藤が木綿の服で訪問したところ、斉昭は、しばらく待たせて面会し、佐藤の木綿服を見て、「左様(木綿)にしてきたのであれば、(自分が)着替える必要もなく、待たせて気の毒であった。」と答えた。佐藤は、又深く恥じ、談話も弾まなかった。
以後、佐藤は、斉昭に近づこうとはしなかった。斉昭の人に接するのはこのようで、そのために苦しめられた者は多かった。
(佐藤について、久米は言う。佐藤が本当に信じているのは陽明学なのに、表面上は朱子学を唱えている、と。)
(コメント:日本がグローバル化の波に飲み込まれていく始まりです。蒸気船が出現して、イギリス、アメリカ、フランス、ロシアが日本にやってきます。産業革命の影響が及んできます。鎖国が許されなくなります。
水戸斉昭のような優秀であるが傲慢な人は、現在でもよく目にします。近づきたくないタイプです。)
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