第6編 大政維新
第29巻 将軍政権返上
第87章 政権奉還(慶応3年 1867年 54才)
10月15日 幕府から朝廷へ大政奉還
大政奉還はこれまで述べてきた時代の流れであった。しかし、天下は、「寝耳に水」の感であった。
(久米は言う)その遠因は1864年の公武合体の諸侯会議にあった。この時、朝廷に松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城が呼ばれ、公武の間を補佐した。 鍋島直正も招かれたが、病気で加わることはできなかった。幕府官僚はこれを極度に嫌った。薩摩は、藩主島津久光に反対という声を上げた。土佐の坂本龍馬は、薩長同盟をあっせんしたが、土佐藩主・山内容堂とは全く交渉がないものだった。土佐の板垣退助は、 300年政権にあった幕府を廃止するには、言論でできるわけはなく、必ず1度は兵力をもって争うことになると言うに至った。
・後藤象次郎は、新政府建設に対する目論見書を建白した。
後藤象次郎と薩摩の小松帯刀は、摂政の二条公に面会して、大政奉還があることを告げたところ、二条公は当惑した。小松は、これを引き受けなければ、決して我々は承知せずと迫ったところ、 二条公は、恐怖に震えて、天皇の都合を聞くと答えた。 ついで、朝彦親王に面会して説明したところ、これを信じず「汝らの言うところはまことか」と言って笑った。
・12月1日、朝廷から佐賀藩に、京都警備を命令された。
・12月12日の御所会議
出席者は、有栖川親王、岩倉具視、尾張、越後(松平春嶽)、安芸、薩摩、土佐(山内容堂)で、藩士は後藤象次郎と薩摩の大久保利通であった。幕府当局者は1人も参列しなかった。岩倉は、坊主頭に烏帽子をつけ短刀をさして、気色はなはだ厳しい様子であった。
争点は.幕府を参列させるかどうかであった。
山内は、徳川幕府を参加させるべしと提言したところ、大原公は、「幕府が政権を返上したからといって、その誠意は確認できたわけではない。」
山内「大政奉還したのはその誠意に出たところだ。その幕府の意見を聞かないのは、天下の人材を登用して議論を決する本旨にもとる。陰険な暴挙である。幼少の天皇を担ぎ上げて、その権力を盗み取らんとするもので、天下の乱を開くものだ。」
岩倉は、声を張り上げ「天皇は、不世出の英才をもって、王政復古の大事を決せられた。今日の事態は、皆ひとえに聖断に出でるところである。それなのに、幼少の天皇を擁立し、権力を盗もうとすると言うのは、失言も極まる。」と難詰した。山内は、直ちに失言を謝罪した。
松平春嶽は、「王政復古の初めにあたり、刑罰を先にして、徳義を後にするのは、はなはだ不可解である。徳川氏の250年にわたり日本を治めてきた功績は、今日の過ちを償って余りあるものがある。速やかに山内氏の言葉を入れて幕府を召集されるべきである。」 これに尾張も賛成する。
しかし、薩摩・安芸の2藩は、これに反対する。特に、
大久保利通は、抗弁も強く「土佐、越後両候の言葉は、徳川公の考えが正しいかそうでないか判断するには足りない。ただ空言をもって政治を争うよりは、徳川公がこれを実行したかどうか検討するにしかずだ。徳川公が、はたして官を辞し、領地を納める、という朝廷の意を実行されるならば、その考えは初めて明らかになる。そうならば、朝議に参加させるべきである。もしそうでなければ、これを狡猾な行いとみなし、その罪をとがめて討伐すべきだ。」
後藤象次郎は、直ちに、これに反撃して「今日の発言は、すべて陰険である。王政復古の初めにあたり、ことを処するに、すべからく公正に出るのを眼目とすべきなのに、これを無視して、陰険をこととすることは何事ぞ。よろしく越後、土佐候の言葉を容れて、徳川公を朝議に参加させるべきである。」と論じ終わり、尾張、越後、土佐の3藩もこの後藤の言葉に重ねて賛成した。
かくして両論激しく対立したが、幕府から朝廷への事務引継ぎについては1人の発言もなかった。
・14日、王政復古の「大号令」出る。
・「大義名分」起源
かくて、長州藩は、文久年間に、薩摩藩と会津藩から排撃されて、宮門の守衛の任務を乗っ取られたが、今回政権返上に乗じて、長州藩は宮門の守衛任務を奪い取った事は、名義上なんとも弁解できない状況であった。これを「大義名分」と称するようになった。これが「大義名分」の起源である。
このように「勤王」を標榜してその美名のもとに政権の争奪をするのを「大義名分」と称し、反対の位置からは、これを罵って「城狐社鼠」と呼ぶに至った。
(コメント:京都を守護するというのは、重要な意味があった。単に天皇を守護するというのではなく、天皇を自らの権力のために利用するとの意味があった。)
・佐賀藩の対応
佐賀藩では、古老・俗吏は、京都の暴動の渦の中に兵を投じるのは危険だとし、志ある者は、「こと、ここに至るも、なお傍観しているのは、 独り権力争いの落伍者となる。」と憤慨した。
政治状況を調査するべく情報収集のために在京していた佐賀藩の中森らは、性格は温和で権謀術数に乏しかったため、土佐の後藤象次郎らが政権奉還の運動をしているのを知らず、薩摩・長州の動きには全く盲目であって、ことがここ及んで、ただ傍観しているだけであった。
直正公も、今日、鎖国の大方針を一変すべき事態に至っても、 佐賀藩は3代将軍から長崎警備を命ぜられて、その恩がある以上、京都に登って功名を争わない覚悟である、との方針であった。
ただ大隈重信から長崎・京都の状況を聞いて、今後、薩摩・長州の有志と気脈を通じて為す所がある者については、自由に行動するのを許した。
・新政府の対応
・王政復古のもとに 新政府が成立したが、いたずらに、政治の知識がない激論のみ盛んにして、執行が行われることがなかった。ただ、自然と内外国家における天下の大事に接触して、初めて穏当の決定を考えるに至った。
(コメント:権力交替時の新旧勢力の激しい討論が目に見えるようです。自らの主張の根拠をもっともらしい理由付けで答弁しています。
岩倉具視は、討論に臨む際は、服装に気をつけていたことがわかります。岩倉が、欧米視察に行った際も、ちょんまげに烏帽子をつけて行きました。しかし、アメリカ人から笑われていることを知るや、直ちにバッサリと断髪しています。交渉では容貌・服装も大事であると考えていたのです。このように、交渉では威厳が大事と考える人々は多くいます。服装・見た目は大事です。実際、相手がどう考えているのか、頭の中までわかりませんから。)
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