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天下泰平での長崎港防衛強化と財政悪化ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-8)

天下泰平での長崎港防衛強化と財政悪化ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-8)

天下泰平での長崎港防衛強化と財政悪化ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-8)

第1編 公の出生以前と幼時

第3巻 齊直公の政治

第8章 長崎港防衛強化と財政悪化

・ロシア・イギリス襲来の警備
当時、日本人は、外国の事情に暗かったので、フェートン号事件も、ロシアと関係があると考えていた。また、オランダ商館長ヅーフも、幕府に、オランダがナポレオンによって滅ぼされたことを隠すためか、そのように事実に反したことを回答していた。

・長崎の両番所の防衛計画
当時の長崎港の防衛設備は薄弱だった。強固にするべく防衛計画を立てたが、その費用は甚大だったので、結局、絵に描いた餅となった。

・それでも、朝鮮国信使が来日する際には、防衛を強化し、長崎台場の大砲の数は2倍に激増した。すなわち大砲、大筒、小銃などである。
ただし、大砲は青銅製であった。直正公の時代に、初めて鋼鉄製大砲を使用するほど進歩した。これは、日本だけ遅れていたわけではない。1873年(明治6年)に、岩倉全権大使がオーストリアを訪問した際も、その国の鉄砲は青銅製であった。その当時、万国博覧会で、イギリスやドイツの鋼鉄製大砲の威力を見て腰を抜かさんばかりに驚いたが、ヨーロッパでも遅れた国は日本と同様に青銅製の大砲を使っていたのである。

・ロシア船打払令も弛む社会事情
イギリスのフェートン号事件もロシアの仕業と考えられていたが、その怒りもいつしか薄薄らぎ、長崎防衛を云々するのは卑怯者の杞憂とみなされて、豪快を主張する武士の嘲笑いの的となった。
長崎は、防衛もやや整っていたが、他の海岸はただ攘夷という声を大にするのみで、空拳を固めるに等しかった。
・当時は、ヨーロッパもナポレオン戦争後の混乱で余裕がなく、他方、日本は、財政悪化にもかかわらず、天下泰平で豪奢を極め、借金は増えるばかりであった。

・蝦夷の外患和平
文化の時代、 1812年から14年にかけて、ロシア船が、淡路商人で酒田と松前との貿易に従事していた高田屋嘉兵衛夫妻(妾2人と言う)を捕らえた。嘉兵衛夫妻が、絹服をまとっていたので、貴人と認めて饗応することはなはだしく厚く、珠玉・絨毯などを与えてカムチャツカに連れ去った。その後、幕府とロシア艦長リコルトとの間で、高田とロシア人捕虜の交換をして、蝦夷地も平穏となった。

・徳川将軍は、栄華を極めたが、旗本以下は、疲労困憊の状態であった。佐賀藩も幕府の真似をして奢侈に溺れ、参勤交代のたびに財政負債は増大した。