「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」(中公新書)を読む(2)
この本の内容については(1)参照。
1,この本は、また、最近の離婚時の「子供のための親権」「子供の意思の尊重」「子の福祉」とか言う抽象的な言葉に対して、子供の養育はいかにあるべきか、ということの核心を教えてくれます。
柴五郎少年が、過酷な状況でも、耐えて頑張り続けられたのは、両親や兄が、柴五郎少年に「武士としての生き方・矜持」を持たせ、過酷な状況で、柴五郎少年をかばい守って養育したからです。 このように、両親から可愛がられ武士としての矜持を植え付けられ・育まれ、自分のルーツに対する矜持が、その後の過酷な状況を生き抜く原動力になったことがわかります。 このことは、チベット宗教の(法王)ダライ・ラマの例でも言えます。 ダライ・ラマが亡くなると、占いなどで次のダライ・ラマが生まれる地方などが予言されます。そして、その地方で、法王にふさわしい子どもを探し出し、その子どもがダライ・ラマの生まれ変わりと認定され、新しいダライ・ラマとして教育されるのです。 現在のダライ・ラマ5世も、ダライ・ラマとして、英語の教育などが厳しかったと言っていました。ここで、重要なのは、全く血縁関係のない赤ちゃんが、ダライ・ラマの生まれ変わりとして扱われ、教育され、期待され、そして、現にダライ・ラマとしての職責をまっとうすることです。子供にとって、幼いころから育まれる自己のアイデンティティがいかに重要かが分かります。
2,面接交渉の裁判では、裁判官の中には、子供が母親のもとで精神的に安定して養育されておれば、「問題はない」と考える人が多いです。非監護親の愛情(=「自分が守られている」との気持ち)を感じるどころか、非監護親から捨てられたとの気持ちをもって、成長する人間が将来どのようになるか、その子供が「人間としてどのように生きていくのか。」ということに思いをいたす人は、ほとんどと言っていいほどいません。当然のことながら、その子供は裁判官の子供ではないのですから。 そして、子との面接交渉を認めても、極めて制限的に認める判断をするのがほとんどです。いわゆる相場として、月1回、時間にして朝10時から昼4時までのわずか6時間で充分である、と何ら疑いを持ちません。子供は、親の背中を見て育つという観念は、裁判官の頭の中にはありません。
しかも、監護親が、非監護親に対して嫌悪感を抱き、子供に非監護親の悪口を言っても、精神的に安定しているのに、「いったい何が問題なのだ。」ということで、問題とすらならず、争点としても取り上げることは決してありません。 家庭裁判所・調査官にしても然りです。大学で児童心理学を専攻し、その専門家ではあるでしょう。しかし、「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」と言われるように、人間に対する理解が薄いのです。司法試験は、法律の試験でしかないのです。この親子事件に、「裁判員裁判」の制度を取り入れたら、結論が違ってくるかもしれません。裁判員裁判になってから、大きく変わったのは殺人や強姦に対する厳罰化でした。裁判官の判決が、社会の常識とかけ離れていたのです。。
3,しかし、人は、人生の岐路において進路を選択することを迫られたり、困難な状況に陥った場合など、「自分は一体どうやって生きていけばいいのか。自分のルーツは何であるのか?」という思いにとらわれます。その時に、自分のルーツである非監護親が、自分が嫌悪している人間であったら、おそらく、自分自身に対して自信を持てないでしょう。その後、結婚し子供をもうけても、同様のことが繰り返される恐れがあります。悪循環です。 4, 裁判官の中には、表面的に「子供の意思」に耳を傾けることが重要だとして、子供が非監護親と会うのを嫌がってるような場合、どうしてそういうことになったのかと原因を探ることなく、面会交流を制限的に考える人もいます。 4,しかしながら、子供にとって自分の片方の親の悪口を聞かされ、親に対して嫌悪感を抱くような養育の仕方では、子供は自分のルーツに対して、人間としての矜持を持つことはできません。これからの長い人生で、自分の祖先に対する矜持というものを持つことができません。やや誇張した言い方でいいいえば、その子供自身「どこの馬の骨」でしかないのです。とても、自分に対して自信を持つことは厳しいでしょう。 代理妻や人工授精で生まれた子供は、自分のアイデンティティーに悩むことが報告されています。子供にとっては、自分に対して、育んで守ってくれる、期待してくれる、そして自分も尊敬している親が見守ってくれているという気持ちが、極めて重要です。 5,家庭裁判所は、子供にとって大事なのは、物理的経済的な養育環境だと考え、調査します。そして、子供が自分の親を尊敬しないどころか、嫌悪感を示しても、「精神的に安定している。」のであれば、そのことを一顧だにしません。裁判官にとって、子供が、学校に通い、外面的に精神的に安定していれば、それ以上、子供はどういう風に育っていくか、と考える人はめったにいません。家庭裁判所・調査官にしても然りです。残念なことです。 6,東京高等裁判所・平成26円3月13日の決定は、非常に稀で、このような裁判官に当たれば幸いです。決定では、
「このように、子供らは、幼いときから、父親に対して生理的な嫌悪感を感じた母親の影響を強く受けて、父親に対する特殊な感情を抱くに至っており、父親との面会交流に極めて消極的な姿勢であることは明らかである。・・・・ しかしながら、他方において、父親は、父として、子供らに対して何か危害を加えたとか、その福祉に反するような行いをしたということはなく、もっぱら母親との関係が悪化したことにより、母親がまだ幼い子供らにも母親と同じ対応をとるよう仕向けた結果、徐々に現在の子供らの父親に対する態度が形成されていったものであると考えられるから、そう意味では、母親は、子供らの父親に対する受け止め方や評価を操作したものと同じであり、子供らと父親との健全な父子関係の構築や発展を、自己の不安定な感情に任せて実質的に阻害してきたものということができ、その意味では、子供らの監護者としての適格性にも大きな問題があるところである。」 「母親は、これまでにも子供らと父親との面会交流を命じられているのであるから、本来であれば、仮に子供らが父親との面会交流を嫌がっても、父親は子供らにとって血をわけた父であり、いざというときには子供らの力になってくれる存在であることなどを根気よく説明するなどして、子供らが父親と少しでも直接交流して、わずかずつでも心のわだかまりを解消できるよう努力すべきであるのに、子供らを口実に、父親が子供らと会うのを妨げており、これをそのまま放置しておくことは、客観的かつ長期的観点から、子供らの福祉を阻害することが明らかであって、もはや子供の現在の気持ちを尊重していれば良いというものではなく・・・」
と判断しています。