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安政の大獄当時、外国列強は日本に迫り、幕府も朝廷も、内部で対立していたー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-63)

安政の大獄当時、外国列強は日本に迫り、幕府も朝廷も、内部で対立していたー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-63)

安政の大獄当時、外国列強は日本に迫り、幕府も朝廷も、内部で対立していたー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-63)

第4編 開国の初期
第21巻 五カ国条約
第63章 五カ国条約締結(安政5年 1858年 45才)

安政の大獄前、外国列強は日本に迫り、幕府も朝廷も、内部で対立していた

 この年、安政5年4月、幕府擁護派の井伊直弼が大老になる。将軍の跡継ぎは、井伊大老が推す紀州候(慶福紀=家定)に決まる。
島津斉彬の宿願は、絵に描いた餅となった。すなわち、薩摩斉彬は、水戸・越前とともに、朝廷の鷹栖、近衛、三條らの公卿に頼み込み、朝命で開港条約を拒否するとともに、一橋候を跡継ぎにしようとしていた。

朝廷では、関白鷹栖が老いて、九條が関白になった。両家は、前々から仲が悪く、「世の中は、欲と信の堺町、東はあづま、西は九重」と落書きされたほどであった。堺町とは、両家があった地名である。つまり、鷹栖関白も、欲のために関東(水戸)の味方をしている、と揶揄されたのである。対する九條は幕府派である。
当時、安政の大獄前は、幕府も、朝廷も、それぞれ、開港・将軍跡継ぎで、大きな対立があった。

 他方、外国勢力は、日本に向かっていた。
この年、5月28日(陽暦6月26日)、英仏連合軍は、広東戦争をへて、天津条約を結び、矛先を日本に向け、開港を迫ることになった。
これを知った米国は、下田の米国領事ハリスをして、横浜以外に兵庫を開港し、江戸に公使を駐在させ、私貿易・信仰の自由をゆるす仮条約の締結を迫り、井伊はこれに応じた。

家定将軍は、脚気で苦しみ、佐賀藩の伊東玄朴に診察させた。
幕府は、尾張、水戸、越前に、隠居・謹慎を命じた。
7月8日、将軍死亡。紀州候=家定が将軍となる。10歳。井伊大老が補佐することとなる。
幕府は、
7月10日、オランダと
7月11日、ロシアと
7月18日、イギリスと
9月3日、フランスと
修好通商条約を結んだ(結ばさせられる)。
その間、7月16日、島津斉彬が亡くなる。熱があったのに練兵に臨み、病状が悪化したのであった。

(コメント:外国列強が日本に迫ってきているのに、幕府も朝廷も、それぞれ、内部で対立していたのです。今も、よくあるような光景です。)

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