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寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下されるー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-56)

寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下されるー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-56)

寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下されるー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-56)

第4編 開国の初期
第19巻 長崎陸海軍伝習
第56章 幕府の硬軟両派(安政2年 1855年 42才)

・寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下される。

・腹違いの兄が亡くなる。43歳。(当時の寿命は短い。)

・3月3日、寺の鐘を大砲・小銃に改鋳するとの太政官符が下される。
(久米は言う) これは、水戸候が福山閣老に迫ってさせたものだ。しかし、銅製の大砲で、西洋の軍艦を撃沈する力はない。佐賀藩では、この太政官符を、意味不明なものと聞き流し、雲上人が承知しないのは無理がないが、幕府がかかる主張をするのは、おかしいと批判した。 井伊直弼も「前代未聞」と批判した。
結局、幕府も、一度は施行したが、その後は力を入れなかった。

・3月20日、英仏軍艦が長崎に渡来す。
4月6日、フランス軍艦が出航したが、韓国沖で破損して引き返し、長崎で修理することとなった。
直正公は、造船技術を会得するチャンスとばかり、「フランス軍が、船大工を雇うなら、佐賀藩職人5・6人をその中に加えて修理ぶりを見習わせておけ。」と命じられた。
しかし、幕府の手続きが面倒で、結局、上海で修理することとなり、画餅に帰した。

(コメント:太平洋戦争時も、同様の命令がありました。前例があったわけです。
直正公の指示は、常日頃から、造船のことを考えていたからこそ出来た指示でした。)

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