小作料(加地子)と貸付金利の支払猶予(モラトリアム)、寺社検束ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-11-34-2)
第3編 政績発展
第11巻 更張(さらなる発展)事務整理
第34章 幕府改革と財政民政整理
小作料(加地子)と貸付金利の支払猶予(モラトリアム)、寺社検束 (天保13年、1842年)
1,当時の佐賀領の現状
当時、佐賀藩内には、大地主の農家は多くなかったが、小作が貧窮する状況は免れ難かった。直正公が、凶作に備えてコメの備蓄政策を講じ、貧民救済の政策を講じても、大庄屋の制度や大地主が小作料(地料米)を徴収するため、小作は貧窮していた。
通常、一町の田を耕作する農家を「1カイ作り」と呼ぶ。
これを自作農の限度としていた。しかし、数町の田地を所有する地主は、これを小作に貸して、小作から小作料を徴収していた。佐賀では、これを「加地子」という。
これは、以前からの慣習法で、小作の労力は、この加地子に吸収されて、残る所得はいくばくもなかった。
直正公の貧民救済の政策は、その効力が少なく、かえって地主の利益を増大した。
朱子学では「均田法」を美法とした。均田の理想は、貧富を平均する社会主義に似ているところがあるが、農業主義の国における経済の根本は、古来からここにある。
2, この年、佐賀藩では会議の結果、「いま鄕村の民は、次第に困窮を加えて倒産も多く、そのためにますます田地の荒廃が生じた。もって田地所有者に対し、この秋より向こう10年を限り、加地子(小作料)の支払いを猶予する。」との厳命を公布した。
佐賀藩では、これを「加地子バッタリ」と呼んだ。これは、直正公の改革の中で、もっとも特筆すべき英断である。幕府の松平定信が借金を免除・放棄させた 「借銀バッタリ」と同じ観がある。
「地子」とは、大宝律令の田令に定められた「賃租」で、今の「国税」に当たる。國司が収める田祖を言う。さらに、荘園の占有者から付加して徴収したのが「加地子」である。
課税の方法は、一反を一石と見なして課税した。一石の100分の1を一口として口率を乗じて課税した。1口は米1升に相当する。
元は、田所が徴収していたが、田所が大庄屋となり、大庄屋が田祖を徴収していた。この徴収から漏れた開墾地と山野に対して、加地子が徴収された。従って、加地子バッタリで影響を受けたのは、山野が多い有田、伊万里、山城の地方であった。
かくて、佐賀藩の民は、地主になろうとする者が少なくなり、有田などの富豪は山林に植樹して薪を供給し、その損失を補った。その結果、富の分配は均等になった観がある。この加地子バッタリは、延期に次ぐ延期となって明治の初めに至った。その頃になると、新たな富豪を生じたが、その後の地租改正でまた平均させられた。
3,借財利息利留め15年の厳命を布達。
当初は、利子に制限を設け、利率は月1分2朱(年14%)以下とし、期限は12ヶ月を限度とした。これまでの借金で返済できないものは双方協議の上10年の分割払いにして返済すべしとした。この年賦償還法・利息制限法で借り主を保護した。
しかし、現実には、貸し主を保護する観を呈した。
そこで、多少の非難を顧みず、一刀両断、名目を問わず、貸借金の延滞利子はすべてこれを切り捨て、向こう15年間利子を留める布達を出した。貧困の者を救うと共に、富豪の利殖を抑制し、貧富の格差を是正する一種の社会政策に他ならない。
4,従来、社寺の勢力はすこぶる盛んで、破戒、貪婪の者は多かったが、法外者として、格別の待遇をなしていた。しかし、この際、非行者に対しては直ちに拘束することとした。
例えば、成富十右衛門の親戚で川上社実相院の隠居となった僧とその従兄弟の菩提院の和尚がいたが、共に淫乱・酒におぼれ、賭博を好むも、一族に寺社奉行がいたため、傲慢不遜の状態を改めなかった。そこでこれらを拘引した。その後、刑務所に入れず釈放したが、彼らは濫行を改めるに至った。
(コメント:・江戸時代の藩内での金融政策については、藩が立法権を持っていたことがわかります。
・久米は言及していませんが、「加地子バッタリ」の結果、未開墾地を開墾すれば、それに相当する税金・年貢を納める必要はなくなり、開墾者は多くの収益を蓄積することができ、その結果開墾地が拡大したのではないかと推測されます。二宮尊徳が、小田原で、未開墾地を開墾して農業を振興させますが、同じ理由です。