坊主と大奥:幕府大奥における老僧日慧のたぶらかし(中山法華経寺の事件)ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-11-35)
第3編 政績発展
第11巻 更張(さらなる発展)事務整理
第35章 更張事務の励行(天保13年、直正公29歳)
・寺社奉行は、寺社の領地、僧・尼、神職の進退、祭祀等の事務、訴訟等を審理し、すこぶる名望あるものを任じ、老中の候補となる慣例であった。
阿部正弘がその職にあったとき、下総国、中山法華経寺の事件の裁判があった。同寺にまつる八幡宮の別当で日慧という老僧がいた。中山派の祈祷方法で、大奥の老女「伊佐野」の帰依をきっかけとして、老女の滝山、野村、瀬山など多くの女中を動かした。文化の初めころからは、家斎将軍の台所もその信仰に及んだ。そのため、彼の勢いは大奥に及んだ。
家治将軍の世子家基がなくなり、家斎公を迎え立てようとした際、日慧は秋葉明神に祈願して、成願すれば江戸城内に1社を建立せんと誓ったが、その後、老中田沼が失脚して建立できなかった。そこで、大奥の女中はみな、神のたたりの到来を予期して恐れた。
日慧は、これを利用して、「神念が城内に留まっている。」といって、神寄せをした際、「当将軍は開運にて、家基公には果報なく恨し」と口走った。そこで、老女花沢等が家基公の霊を若宮八幡宮と称し、ついにその神体を中山寺に勧進するに至った。
そのころ、西の丸の庭の紅葉を刈り取ったとき、家斎公の長子がなくなったため、奥女中等は、紅葉は秋葉に通ずと言って、日慧に頼んで、社を庭に勧進したことがあった。このような大奥にかかる迷信は、日慧によるものと露見した。
寺社奉行阿部は、裁判では、老女等が亡くなり証拠も十分でないため、結局、日慧が尼や船橋の女と密通していたことを理由に、日慧を島流しに処した。