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幕末、対馬を巡るロシアの横暴と英国の対応ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-23-68- )

幕末、対馬を巡るロシアの横暴と英国の対応ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-23-68- )

幕末、対馬を巡るロシアの横暴と英国の対応ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-23-68- )

第5編  公の国事周旋
第23巻 公の退隠(隠退)
第68章 長崎の警護(文久元年 1861年 48才)

  幕末、対馬を巡るロシアの横暴と英国の対応

1,英国公使アールコックは、桜田門の変後、貨幣の不均衡、需要と供給の激変、物価の暴騰、庶民の生活難から、武士の反乱を招いて虐殺を誘発したのは、日本人が嫌がっていた開国と貿易を求めたからである、と考えていた。これ以上のことを日本に迫るのは、いたずらに騒乱を誘発することになり、英国の信用を失墜することになると気遣っていた。そして、ロシア人が、長崎の稲佐を海軍の小根拠地として、砲艦数隻をつないで自国領土であるかのようにしているのは、日本を併合する底意があると見破り、新潟港に変えて対馬を開くべし、と忠告した。

他方、ロシアは、中国から黒竜地方の割譲をうけ、樺太の境界を争って、我が北方をうかがっていた。ついで、ロシア領事は、英国が対馬海岸を測量したのに対し、英国は日本侵略の意図があり、早急に対馬を防衛すべし、と忠告した。
英国も、対馬占領の野心ありと言われ、両国の間には、暗闘めかしきものがあった。

2、3月2日、ロシア軍艦が対馬の浅海湾付近に上陸し、船を修理すると言って、勝手に木を切って小屋を建て、この土地を借用したい、代価は大砲で払うと言い、その態度は傲慢著しいものがあった。
幕府は、これは容易ならぬと考え、対馬には「つとめて穏便の取り計らい」を要請した。直正公は、対馬の沿岸巡航を命じ、蒸気船「電流丸」は、対馬の厳原港に入港し釜山沖に停泊した後、対馬の浅海湾に入港した。この電流丸の寄港は、対馬の役人には心強いものに思われて歓迎された。

ロシア人は、対馬で牛を放牧していたところ、4頭ほど死んだため、8頭を村民から買おうとした。しかし、村民から拒まれるや、売らなければ徴発する、さらには牛は毒殺されたものであるから復習する、と憤った。
そこで、長崎奉行から、横文字の書面で立ち退きを命ずると、日本政府の印鑑が押してある文書は、法律上江戸駐在のロシア提督でなければ開封できないと言って、らちがあかなかった。

さらには、ボートで、幕府が船の往来を禁じている箇所をかってに乗り回し、争いとなった。ロシア人は銃で日本の警備人を1人殺し、郷士2人をロシア船に連行して監禁し、翌日、さらに2人を逮捕・拘留した。監禁された郷士は、その恥辱に耐えきれず、自殺しようと自分の舌をかみ切った。ロシア人は、これを取り押さえ、村役人に送致した。ロシア人は、船中に呼び入れた日本役人の面前で、拘留者の髷(まげ)をつかみんで殴打して威嚇した。担当役人は、我らが穏当に応対しているので、我らを怒らせて徴発し、戦闘の口実を得ようとしていると憤慨した。

   その後、英国公使は、仏米公使と協議したあと、自国艦隊を対馬に差し向けた。よって、ロシア艦隊は、7月25日、対馬から退去し、一件落着した。

3,(久米は言う)当時、攘夷の志士が、南洋の南蛮人同様、恐怖心に駆られて外国人暗殺・虐殺を行ったが、それにも拘わらず、外国人が我ら日本人を軽蔑しなかったのはなぜか?
それは、オランダ領事が、そのころ、日本は東洋の強国、日本人に英才が多いのは中国の及ぶところでない、と述べたことによるものである。

(コメント:この対馬の事件と言い、現在のメドヴェージェフ首相と言い、過去の日本人シベリア抑留を思い起こすと、ロシア人はどうも油断できません。)

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