幕末、長崎・佐賀で、終末論がはびこる(彗星が天にわたり、コロリ病(コレラ)が流行する)ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-62-2)
第4編 開国の初期
第21巻 五カ国条約
第62章 条約改正紛議(安政5年 1858年 45才)
幕末、長崎・佐賀で、終末論がはびこる(彗星が天にわたり、コロリ病(コレラ)が流行する)
・寛政のころであった。長崎市民の間では、奇怪な風説が流行った。世の末になれば、トンコロリンと言う疫病が流行し、人類はその疫病によって絶滅する、 と言うのであった。
トンコロリンというのは、その病気にかかると、鉄砲で射殺されるように、トンという一声を聞くと同時にコロリンと倒れるという意味で、猛烈な急病を意味する。
1858年、長崎では、猛烈な下痢を発生する疫病が流行して、数人が死亡し、次いで佐賀にも流行して、昨日までは健康を誇っていた者も、今日は猛烈な下痢をして、その手足はたちまち冷たくなり、やがて息絶えて死んだ。
そこで一般市民は、これが「トンコロリン」 と恐怖し、トンコロリンは音を嫌うということから、夕方には、簑を叩いたり大声を出したりして、これを追い払い、武士の家では、鉄砲を放って、トンコロリンを追い出そうとした。この恐怖は、 まわりの村にも及び、太鼓を打ってこれを追い払おうとするなど、その恐怖は佐賀城下に満ち、その光景はせい惨であった。これがコレラ流行の始まりであった。
さらに、 8月になると彗星が現れた。 夕暮れに西北に現れた彗星は、夜になるとその光は鮮明に尾を引いた。日にちを重ねるに従って、それは南に進み、その尾は半天にわたり、光芒はなはだ大となり、明月の夜もその光を減ずることはなかった。
これらの流行はなはだしく、棺を送る数も増加するとともに、天空に奇怪な彗星が出現して、人々は、安心した気持ちはなく、今や人類滅亡の時は迫り来たる、と恐れおののき、寝食を忘れるほどであった。
直正公は、侍医に命じて、周辺の村を巡回し町医者を指導して治療に遺憾なきを期し、佐賀藩政府は神社に命令して病難よけの祈祷を修めさした。
その後、彗星は次第に南下して光芒も薄くなり、およそ5 0日を経た9月末に至ってその影はなくなった。
(コメント:江戸時代の無知なことと一笑は出来ません。現代でも、 2000年には、パソコンのプログラムが1999年までしか考えておらず、 2000年になればコンピュータを使った機器が故障して、どんなことが起こるか分からないという報道が流行りました。また「ノストラダムスの予言」で人類が滅亡するとか言うのがベストセラーとなり流行りました。オウム真理教でも終末論が言われました。
その他にも、エイズ、サーズSARS、エボラ出血など、これまでになかった病気が流行ると、マスメディアに大々的に報道され、不安をかき立てられます。 ニュースバリューを大きくして、視聴率を稼ぐために、嘘ではないが、ことさら大きな影響がある誇張した表現を使います。 冷静に事実を検証し報道する姿勢が欠如しているきらいがあります。)