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幕末のクーデター(七卿落ち)と鎖国から開国貿易への豹変ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-77)

幕末のクーデター(七卿落ち)と鎖国から開国貿易への豹変ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-77)

幕末のクーデター(七卿落ち)と鎖国から開国貿易への豹変ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-77)

第5編  公の国事周旋
第26巻 公武合体
第77章 公武合体派のクーデター(7卿落ち)(文久3年 1863年 50才)

      幕末のクーデター(七卿落ち)と鎖国から開国貿易への豹変

 1,この年8月18日、公武合体派(会津・薩摩同盟)のクーデター=三条ら7卿は長州落ち
このときの様子を、(薩摩藩士 高橋佐太郎は言う)「私は、(関白)近衛殿にうかがった。近衛殿は、その間の事情を次のように語った。」
「・・主上(天皇)の仰せあるには、『公卿に元気があるのはわずかである。他は、みんな浮浪(志士)らから尻押しされているだけである。それ故、このように泣く泣く(大和行幸へ)ゆかねばならぬようになった。それを思えば、じつに得堪えぬ心地がする。』とため息された。」と説明された。
そこで、私(高橋)は、近衛殿に「なぜ殿下は論争しないのですか。」と質問した。すると、『否よ。さ あらむには、この方どもの首が飛んでしまうべし。2・3日前にも、中山忠光が来て、短刀のさやを抜いて自分に迫ってきたほどである。』とため息をつかれた。」と。

 また、主上(天皇)は、鷹司ら公卿に、「毎度毎度、朕が申し出る義を押し返すこと 結局、綸言(天皇の言葉)は、汗のごとしと言って、一度出した以上は容易にひっくり返してはならないものである。それなのに 毎度 返却するのは、その方どもの不行き届きと申すべきである。もってのほかである。以後、たやすく、勅(天皇の言葉)を(ひっくり)返すにおいては、朕においても、位を辞するゆえ、関白はじめ その方どもも 辞職の覚悟これあるべく。」と詰責の言葉があった。

2,この間、佐賀藩は、軍政等を改革していた。
・弓・槍から鉄砲主体に改革した。養兵から徴兵制度への工夫に苦心した。
・蒸気機関の製造を始め、軍費に充当した。
・5カ国条約以降、貿易が増大し繁盛した。(他藩が、攘夷を唱えていたことに比較すると驚くばかりです。)

3,馬関戦争・薩英戦争後、幕府と薩摩藩は、鎖国論から開国貿易へ豹変す。
・幕府は、外国奉行池田らをフランスへ派遣することに決定した。一行は、12月27日、フランスのマルセーユに向かった。
・他方、薩摩藩は、イギリスと交戦して敗北したのをきっかけに、イギリスに軍艦製造を依頼した。
ここに来て、攘夷はいっぺんに冷え切り、外国に親しみ、その知識を取り入れる必要に目覚めたのである。

(コメント:戦前は「天皇は現人神」と言われていましたが、幕末の様子を見ると、倒産会社の指導層みたいに、めちゃくちゃです。こういう事実は、この「鍋島直正公伝」で、初めて知りました。歴史の本も著者の考え次第で、故意に言及しない事実も多くあります。全く、フィクションみたいです。誰が書くかによって、全く内容が異なることがわかります。文部科学省検定教科書では、政府の意向で都合の悪い事実は書かれず、教えられないことがわかります。

・薩摩藩は、戦いに敗れて、これまでの方針をいっぺんに変更し、豹変しました。 なかなか、基本方針を変えるのは、難しい。大きい痛手を被ったばかりに、痛手がない他の藩よりも、後日、優位に立つことができたともいえます。
なんか、太平洋戦争に負けた日本の戦後を思い浮かべます。
幕府政府も、鎖国主義からフランスへ使節派遣に舵を切ります。
結局、時代の大きな流れに沿わなければ、取り残され滅びることになります。)

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