第6編 大政維新
第29巻 将軍政権返上
第86章 直正公の上京(慶応3年 1867年 54才)
公卿の参政に対する直正公の見解
時代の流れで、天皇親政となるのは良いことであるが、公家が政治に携わる事ははなはだおぼつかない。公家の身分は高いが、長く政治と離れ、武士や農民に親しく交わることがなく、思想も事大主義で細く、とても民を統率する地位にたえるものではない。したがって、天皇親政となっても、公家は従来通り詩歌を歌い、蹴鞠を蹴っているのが適当である。 さらに、公家が外国人と交渉して政治に当たることはその任に堪えるものではない。
幕府政治の直正公の見解
また幕府としても同じである。表面はいかめしく、老中といえばいかにもえらく見えて、いろんな人物が集まっているように見える。しかし、実はことごとく形式的・外観だけで、現在の政局を担当するに足る能力がある者は乏しい。浅はかなる小手先を弄するだけで、到底変化の時代を統制する望みは無い。
これからの日本を動かす者について
(久米が、 幕府政治を担当する5万・10万石の譜代大名は保守的で変化には対応しがたいが、志ある大藩の大名がこの政局を救わんことを望むといったところ、 直正公曰く、) 大名とても同じである。薩摩の島津斉彬公がもし存命であればなんとかできたはずであるが、今や斉彬公もいない。長州公が評判であるが、自分はこれまで直接会ったことがないので何ともいい難いが、これまで長州藩を統率してきた手際を見れば、今日の時代の変化を任すには当たらないと思う。
自分もまた言うに足らない。時代の人物は、意外なところより時代の要求に応じて起こるものである。歴史上偉大なる人物は門閥より出てきたのではなく、他より出現するのを常とする。すなわち人物は在野から出る。
と言われた。
議会制について
(直正公が久米に言うに)「西洋諸国は、みな議院を設け、全国民から選出した代理人を出席させて、多数決により法律を作り、毎年、政治の方針を定めると聞いている。誠に上下の意思を通じるには良い政治体制である。
しかし、機密の事項はどうするのか。国政で最も肝要なのは機密事項である。外交はもちろん、国内の機密事項を多数の代議士に問うて決定するようでは、時期に遅れて、とても迅速になしえない。外交などの政策の決定は、当局者が迅速に決定するのでなければ、決してうまくいかない。神業ほどに時期にあったと言うほどでなくては、時期に遅れた政策となってしまって意味がなくなる。西洋諸国でも、まさか迅速な政治の決定までも国会に諮問するというような迂闊な事はないはずだ。 その点についてさらに思案の余地がある。」ということであった。
当時、万国公法など数種の書物があったが、久米もこれについて答えることができないまま話は終わってしまった。
これを、当時の幕府政治のあり方について当てはめてみると、黒船が来て以来というものの、諸国の有力大名を政治に参加させて、国家の基本方針を決定していたものであり、政権が天皇に移転した後も、西洋のように大名と藩主との常議員会を設け、これに政治の基本方針を議決させるという政治体制に改めるのは、時代に沿った処置なりとも言うことができる。
このような話から、直正公が、天皇による維新の後、立憲政治をもって将来の基本方針を定めようと立案していたことを窺い知ることができる。
時事評論について
(久米はいう) 多くの先人に対する批評は、ただ先人の言葉を踏襲し、自分に確固とした自信がないのに、みだりに是非を論じるだけでこれを書物にしてしまう。そして、多くの人が同じように言う場合が多い、と直正公と語り合ったことがある。
(コメント:直正公が、幕末、すでに議会制を理解し、今後の日本の政治体制は議会制でなければならないと考えていたことに驚きです。また、当時の幕府においても、将軍が外交などの分野において独断で決めるのではなく、主要な大名の意見を聞いていたことから、明治に先立って幕末の政治は各地の代表からなる議会制であったと評価しているのも新鮮です。
幕末の混乱期から、日本の政治を動かす者は、身分の高いものからではなく在野から出現する、というのも卓見です。
最近は、表現の自由のもと、ブログも盛んで、各自が時事問題の意見を発表したり本にしたりしています。しかし、久米が幕末の状況について行ったのと同じように、自ら事実を調べたり確固とした自信もないのに、金太郎あめみたいな同じような論評が多く、読むのも時間の無駄です。)