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幕末の藩の借金の方法ー佐賀藩の例ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-7)

幕末の藩の借金の方法ー佐賀藩の例ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-3-7)

第1編 公の出生以前と幼時

第3巻 齊直公の政治

第7章 財政困難の原因

・概説
・徳川家斎将軍の時代は、財政は逼迫していたのに栄華を極めた。 倹約を勧めた老中松平定信は野に下り、世の中は奢侈を煽った。家斎将軍は50人以上の子供をもうけた。

・佐賀藩の齊直公も、同様に奢侈に耽溺し、 30人以上の子供をもうけた。

・ヨーロッパ各国は、フランス大革命の後、混乱し、日本に来る余裕はなかった。

・鍋島は一代交わし、と言う諺がある。財政が一代交代で余裕があったり、赤字になったりと言う意味である。現実にそのようになっている。

・長崎警備のための起債
ロシア使節が長崎に来航した際、佐賀藩はその警備費用ために多額の負債を抱え、佐賀藩士も武器の準備がなくて、その準備のために借金を重ねるだけだった。

・米筈乱発、家中の負債利留15年賦
当時の借金の方法は、米筈(はず)を乱発するものであった。米を売ったことにして、金を借りるものであった。筈(はず)とは、証券のことである。同様のものに、当(あて)筈、乞(こい)筈がある。
当筈とは、この証券で米を払わせるものである(ブログ主 注:約束手形のようなものか)。大正時代の支払命令のようなものである。
乞筈とは、受け取った者が発行する請求書で、署名した者が支払う旨書き添えるもので、当筈に代用するものである(ブログ主  注:為替手形のようなものか)。
これらの証券で、米の会所(取引所)で、決済していた。筈には、上質の紙を使用していた。

藩には、紙幣発行の権限がなかったので、これらを紙幣に替えようとしたものである。1年限りで引き替えた。1年ごとに色を変えた。これを米札といった。その札は、1升、2升、5升、1斗、2斗の各種があった。1升は、定価40文で通用していた。

この券に、会所の御用達商人が裏書きしてこれを発行し、翌年の秋に新米が出れば、新米筈に書き換えて引き替えていた。すなわち、1年限りの米の当筈で、期間中に焼失、紛失した分は、発行者の利益となった。紙幣と同性質のものである。
米に代える場合、米が不足する場合に備えて、準備金を用意していた。これを「胴銀備(どうぎんそなえ)という。米筈には、米と銀と二重に備えて、信用を厚くしていた。

大阪での借金のため、準備すべき米の量以上に米筈を発行して、引き替えに窮することになった。
結局、大阪商人に4年に亘って交渉し、25年分割払いを申し込んだが、利留めの15年分割払いで決着した。

(コメント:借金の方法は、今も江戸時代もあまり変わりません。手形、融通手形、手形ジャンプなどです。むしろ、江戸時代でも、手形同様のものがあったことに、妙に納得しました。)