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幕末浪人の攘夷・私貿易禁止論は、江戸・大坂の商売人が背後で援助していた。ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-62)

幕末浪人の攘夷・私貿易禁止論は、江戸・大坂の商売人が背後で援助していた。ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-62)

幕末浪人の攘夷・私貿易禁止論は、江戸・大坂の商売人が背後で援助していた。ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-21-62)

第4編 開国の初期
第21巻 五カ国条約
第62章 条約改正紛議(安政5年 1858年 45才)

   幕末浪人の攘夷・私貿易禁止論は、江戸・大坂の商売人が背後で援助していた。

・京都・大阪は、当時の幕府に媚びない学者を出していたが、これらの多くは豪商に寄生して生活する民間学者であった。江戸の町学者に比べれば、武士の間においては重んじられなかった。
そして、これらの学者は、自らもその地位に甘んじ、江戸の町学者に対して言えば、詩人や書家に敬意を払うほどで、気力を尊ばず、和歌などの文学を喜んでいた。ただ、感情的に、尊皇攘夷の主張の下に、悲壮の歌を競い合った。
しかし、その人格は、多くは軽佻で、尊敬される人物も聞こえてこなかった。

そのため、下田を開港したはじめは、非難の声も全く聞かなかった。ところが、貿易に変化を生じ、大阪に利害関係が極めて深い私貿易の問題が生じるに及んで、素浪人の猛烈な反対論を生じたのは、その背後に、私貿易を敵視する江戸や大坂の商売人が潜んでいたのを見逃すわけにはいかない。

これまで、大阪の商売人は会所貿易で受けた利益は大変なものであった。豪商が軒を連ねる道修町、これは小西行長の本家の所在地であるが、高麗人参、麝香(じゃこう)、大黄などの高価な薬を販売して、濡れ手に粟をつかむほどの莫大な利益を収めていた。そして、これらの薬の多くは、中国船の輸入に頼っていた。

加えて、オランダ船の輸入する西洋の工業品は、貴重品として賞賛され、更紗(さらさ)、唐山縞の木綿、呉服、沙羅、毛布のような物は、非常の高値で買われていた。これらは、外国では、日常品であったにも関わらずである。羅紗のようなものは、錦と同じ寸法で値段をつけられた。
文化・文政の頃、江戸、町芸者の華奢な唐山縞の呉服の帯等を想像して欲しい。

 このように、大阪、江戸の商売人は、座ってこれらの巨大な利益を受けていたので、私貿易の開放には極力反対するのは当たり前であった。しかも、彼らは、初めから商売でこのような儲けを得た上に、家の株でもって、懐に手をして利益をさらに得ることになった。

 そういうことなので、大阪開港で、他と競争するなどの考えも浮かぶはずもなく、ただひたすら、開国条約を拒んで、会所貿易を保障させようと、 裏から手を回し、猛烈な賄賂戦を講じた。かくて、素浪人らが京都に結集して、政治を論じ、秘密運動をなした。そして、「開国については、諸大名と再議すべし。」という勅答を引き出したのである。

他方で、これらの勢力を利用して、門閥を打破し、人材を抜擢しなくては、大改革を遂げて、時局を制することはできないと論ずる者もいた。

・佐賀藩では、この年正月、「三重津」(明治の近代化世界遺産)で、西洋船操縦の訓練を始めた。直正公は、こっそり蒸気船で鹿児島まで往復した。島津の斉彬は、膝を交えて談論した。共に開国し通商すべしとの意見であった。困ったのは、菜漬けが不潔だったことである。下女が勧めたものの手を出さずにいたが、家来が気を利かせて「この人は漬け物が嫌いよ。」といい添えたが、下女は「是非に」と勧めて、大いに窮した。

(コメント:現代の族委員による政策や規制緩和論なども、背後には利権を持った商売人(経済界)が座って金を援助しています。幕末と全く同じです。

そういえば、幕末に、江戸・京都・大阪には、多くの人がいましたが、明治時代、歴史に名を残した人はあまり見かけません。久米が言う理由からでしょうか。)

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