当時軽蔑されていた蘭学が次の時代を切り開くー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-18-54)
第4編 開国の初期
第18巻 開国の初歩
第54章 時代変化の知識誘導(安政元年 1854年 41才)
当時軽蔑されていた蘭学が次の時代を切り開く
・4月8日、内裏(だいり)炎上
・佐賀藩では、楠公父子をまつる義祭同盟に、尊王の志士が参集する。5月25日の義祭に、大隈重信、久米邦武も新入りとして加わり、先輩に酌して回った。この日の献立は、きゅうり揉み、皮鯨、塩鯛、塩アワビの水ひたしであった。無礼講で、先輩の話をきいた。盟主である弘道館の執政安房は、学問教育に貴賤の階級を認めなかった。声が大きく、一度怒鳴れば、人々は辟易していたが、しかし、書生が屈せずに抗議すれば、機嫌ははなはだよかった。このため、議論はいよいよ活発となった。他藩のように脱走浪人はほとんどなかった。
・当時の佐賀藩の雰囲気
勤王論が高まるにつれ、将軍を「あづま」代官と排斥し、去年黒船が渡来した際、前将軍は恐怖の余り亡くなり、新将軍は北条高時のような白痴なりとのうわさがたった。関東武士は勇気を誇るけれども、文永・弘安の蒙古軍は九州人の武力で打ち払った。北条氏の末路は、とおからず徳川氏の殷鑑(いんかん・先例)となるだろうと言われていた。