「正式に申請してくれ」は役人が陳情を断る常套手段|幕末の欧米認識の程度は低かったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-15-45-2)
第3編 直正公 政績発展
第4巻 砲台増築(嘉永3年=1850年~同4年=1851年)
第45章 大砲鋳造場の建設に着手
・大砲鋳造場の建設について、佐賀藩から、幕府へ内密に探りを入れたところ、この建設は、佐賀藩領内の備えであるから、幕府から指図する必要もないということで、勘定所(今の財務省)からも何の問い合わせもなく、すこぶる冷淡で、佐賀藩から督促もしがたく、長崎奉行に届け出するというだけであった。砲台増築、大砲鋳造、弾薬船など新規の事業ばかりで、費用も甚大で、10万両を拝借する予定であったので、とりあえず、老中阿部へ書簡を送った。減額を予想して、18万両と請求した。
・当時の論者が、海外事情について認識する程度は低かった。
外国の艦船を見れば、「黒船」と呼び、黒船を見れば、これをオロシアないしイギリスより来るものと決め込み、アメリカのごときは、2・3百年前に発見された荒れ地に過ぎず、南洋のオーストラリアは新オランダと言って、ほとんど無人の州に過ぎないと思っていた。文化(1804年)の時代以来、アメリカ船が長崎に出没するのも、商船・漁船に過ぎずと言って意に介する者は極めて少なかった。
しかしながら、アメリカは、近年、太平洋岸のカリホルニヤ州をメキシコから奪取し、金鉱が発見されて人口が増加し、鯨漁船は我が蝦夷地方を航行して、津軽・松前の海峡に至る者が多かった。
英国は、すでに支那の主要な港を占領し、フランス軍艦とともに、琉球に出没して、薩摩藩と貿易をしていた。そこで、アメリカは、日本に開国を迫るのは、望みがないことではないと考えた。
こういう状況下で、佐賀藩の砲台増築は、今さら幕府で会議する必要もなく許可さるべきことであるが、財政難で江戸湾の防衛もできない状況のなか、佐賀藩からの拝借金の要望は、ますます嫌がられた。
結局、この年、大型台風が襲来し、その損害・修復を口実に、拝借金の要望を出すに至った。そこで、直正公は、拝借金を要請するのに先だって、長崎会所(幕府の長崎貿易の担当)の金庫にいくらあるかを探知し、幕府への要望書には、「長崎会所の残金はいくら」と書き添えてた。
・しかしながら、これが勘定書の役人に届くと、低い声で「これは、驚くばかりの願書でござる。国庫は甚だ少なく、とても10万両はできかねる。よくて一万五千両止まりで、とても3万両には至らない。さては、海防掛(いまの防衛省)で、大度量のもとに決断しない限り、勘定所では、いかんともできかねる。まずは、御家老が、幕府に出向き、長崎奉行へも届け出ることも必要だ。」と注意した。
・他方、筑前藩は、佐賀藩の砲台増築は筑前藩の体面を損なうもので、長崎湾内の模様替えの工事が先決だと言い、埒(らち)があかなかった。そこで、佐賀では、埒があかないのを「筑前示談」と言うようになった。
(久米は言う)幕府官僚が「国家事業であるから、堂々と家老を出して願うべし」というのは、一見もっともなようであるが、形式で回答する官僚の常套手段である。当時、国防の充実をはかるのは当然のことで、佐賀藩から家老を江戸まで派遣すれば、従者も率いると、往復費用で数千両を要し、仮に要望額10万両が3万両に減額されれば、陳情費用の上にこのような費用を重ねれば、その4分の1は費用でなくなってしまう。これは、形式の威光を輝かす、幕府官僚の卑しい見解に他ならない。
そもそも、幕府が国家事業たる砲台増築をなさず、佐賀藩独自でやることになった時点で、幕府は体面を失ったのだ。そこで、拝借金の形で威光をてらおうとするのは、ますます権威を損することになると言わざるを得ない。家老が上京して陳情せよというのは、幕府・国庫が困窮している証拠だ。