鍋島直正公伝 徳川将軍の大奥の贅沢な食事と直正公の節約食事等ー鍋島直正公伝を読む(2-6-16-2) yama-da 2015年8月25日 徳川将軍の大奥の贅沢な食事と直正公の節約食事等ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-6-16-2) 第2編 公の初政治 第6巻 公入部(家督相続)の新政治 第16章 公の入部 ・徳川将軍の大奥での贅沢な食事と直正公の節約食事等 1,明治23年、帝国大学国文科で、かって幕府の大奥に仕えていた箕浦花子、佐々静子の2婦人を招いて、将軍の大奥のことを問うたことがあった。 ・食事について。 ・精進日でなければ、朝から魚をすすめる。ーーー ・朝は、豆腐の淡汁がある。ーーーー ・本膳には、ご飯、お汁、お平皿、壺、膾(なます:酢の物)ーーーー ・二の膳には、豆腐または卵などの淡き汁付きーーーー ・そのほか、鯛、またはホウボウなどの焼き物は必ず付くーーーー ・置合わせとして、口取り様の物(取り肴)が付くーーー ・ご飯を除くほかの料理は、お手著けがあれば、直ちにお代わりを差しあぐ、1箸2箸むしりて召し上がれば、直ちにその肴は取り下げてお代わりを進める。 ・表方(政治を行うところ)で調理する物は、ことごとく1品毎に9盛りあり、そのうちより1・2種類を召し上がるのみ。表のは味わるしとて、お好みの甘煮あるいは水貝(アワビ)などを、御台所で、仲居が調理して進めるのを常によく召し上がれり。 ・残りの肴は、すべて奥の者がいただくなり。ーーーー ・昼食も同じく二の膳付き。ーーー ・夕食は、二の膳なし食事の量は、夕方が多かった。ーーー ・衣類についてーーーーー この2人は、担当が違い、知らなかった。 一般的には、大名の着古しは、近侍の男女に賜るを例とした。奢侈のはなはだしいのは7日に必ず1回取り替える習慣で、その着古しは近習の者に賜った。 ひどく垢じみたのは、焼き捨てる。お勤めの男女は、これを貰い、親類一族皆、絹に包まれ、真綿に包まれた。 直正公の、佐賀での衣服は、木綿を着ることにした。 2,直正公の入部の祝い膳について ・料理には、必ずお代わり用の控えを備える。 ・同席の者として、お年寄り、お側頭などが陪席する。 ・毒味役の者がいて試みる。その膳として2人用の食事を用意する。小姓頭と台所頭用である。食事の残りは、分けて持ち帰り、親戚を集めていただく。そのため一回の祝い膳で8家族に親戚まで加えた残りがあった。 ・正目の檜の箱に山盛りに氷砂糖を盛りたる物が付いた。 3、節約後の公の食事 朝食は、汁、香の物、二品限り、昼食は平皿と香の物、二品限り、夜食は味噌塩を手本としたが、そのままは実行されなかった。 注:当時、昼食をもって正食としていた。僧も同じ。佐賀の弘道館の食事は、朝は漬物、昼のみ副食を添え、夜はごま塩であった。江戸の昌平坂学問所も、朝は漬物、昼は汁を添えて2食となし、夜は残り飯を食う定めであった。 夕食を正式とするのは、西洋の習慣で労働者の風俗から来ると思われる。 4、このように、大名に近く仕える者は、残り肴に飽食し、焼き捨ての衣類に暖衣し、その人数ははなはだ多かった。これら猥褻のことまで全体としていうと、これを宿習という。この慣習には、常識を越えたものがある。殊に人格の卑しい者に感染し、洗浄しがたい弊害を出したことが多かった。 直正公は、この宿習の一掃を進められたがその実行に当たっては、幾多の困難を醸しだし、容易ではなかった。 ・記事の目次は、本ホームページの上の方の「鍋島直正公伝を読む」ボタンをクリック。 共有:クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます) Related posts: 鍋島藩の大奥—–再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-9-1) 再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-9-1) ー鍋島藩の大奥 鍋島直正公伝第1編 目録 第1編 公の出生以前と幼時 第3巻 巍松(斉直)公の政治 第9章 文化の奢侈状態 佐賀の女寵佞幸–(大奥)… ... 鍋島直正の評価(アーネスト・サトウなど)—再建の殿様・鍋島直正公伝を読む(0-2) 鍋島直正の評価はいろいろです。算盤大名、狡猾、二股膏薬という評価もあります。しかし、それ以上の時代の流れを鋭く見抜いて生き抜いた人物です。... 先見の明とは何か? 困難にめげず、これをなすことー鍋島直正公伝を読む(3-15-45-1) 先見の明とは何か? 困難にめげず、これをなすこと(起業に当たって)ー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-15-45-1) 第3編 直正公 政績発展 第4巻 砲台増築(嘉永3年=1850年~同4年=1851年) 第45章… ... ← 協同組合が破産したら、組合員やその家族は連帯保証に注意を要します。相続放棄の検討。 直正公の姿勢は、藩士民に親しいものであったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-6-16-2) →