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徳川将軍の大奥の贅沢な食事と直正公の節約食事等ー鍋島直正公伝を読む(2-6-16-2)

徳川将軍の大奥の贅沢な食事と直正公の節約食事等ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-6-16-2)

第2編 公の初政治

第6巻 公入部(家督相続)の新政治

第16章 公の入部

・徳川将軍の大奥での贅沢な食事と直正公の節約食事等

 1,明治23年、帝国大学国文科で、かって幕府の大奥に仕えていた箕浦花子、佐々静子の2婦人を招いて、将軍の大奥のことを問うたことがあった。

・食事について。

・精進日でなければ、朝から魚をすすめる。ーーー
・朝は、豆腐の淡汁がある。ーーーー
・本膳には、ご飯、お汁、お平皿、壺、膾(なます:酢の物)ーーーー
・二の膳には、豆腐または卵などの淡き汁付きーーーー
・そのほか、鯛、またはホウボウなどの焼き物は必ず付くーーーー
・置合わせとして、口取り様の物(取り肴)が付くーーー

・ご飯を除くほかの料理は、お手著けがあれば、直ちにお代わりを差しあぐ、1箸2箸むしりて召し上がれば、直ちにその肴は取り下げてお代わりを進める。
・表方(政治を行うところ)で調理する物は、ことごとく1品毎に9盛りあり、そのうちより1・2種類を召し上がるのみ。表のは味わるしとて、お好みの甘煮あるいは水貝(アワビ)などを、御台所で、仲居が調理して進めるのを常によく召し上がれり。
・残りの肴は、すべて奥の者がいただくなり。ーーーー
・昼食も同じく二の膳付き。ーーー
・夕食は、二の膳なし食事の量は、夕方が多かった。ーーー

・衣類についてーーーーー
この2人は、担当が違い、知らなかった。
一般的には、大名の着古しは、近侍の男女に賜るを例とした。奢侈のはなはだしいのは7日に必ず1回取り替える習慣で、その着古しは近習の者に賜った。
ひどく垢じみたのは、焼き捨てる。お勤めの男女は、これを貰い、親類一族皆、絹に包まれ、真綿に包まれた。
直正公の、佐賀での衣服は、木綿を着ることにした。

2,直正公の入部の祝い膳について
・料理には、必ずお代わり用の控えを備える。
・同席の者として、お年寄り、お側頭などが陪席する。
・毒味役の者がいて試みる。その膳として2人用の食事を用意する。小姓頭と台所頭用である。食事の残りは、分けて持ち帰り、親戚を集めていただく。そのため一回の祝い膳で8家族に親戚まで加えた残りがあった。
・正目の檜の箱に山盛りに氷砂糖を盛りたる物が付いた。

3、節約後の公の食事
朝食は、汁、香の物、二品限り、昼食は平皿と香の物、二品限り、夜食は味噌塩を手本としたが、そのままは実行されなかった。

注:当時、昼食をもって正食としていた。僧も同じ。佐賀の弘道館の食事は、朝は漬物、昼のみ副食を添え、夜はごま塩であった。江戸の昌平坂学問所も、朝は漬物、昼は汁を添えて2食となし、夜は残り飯を食う定めであった。
夕食を正式とするのは、西洋の習慣で労働者の風俗から来ると思われる。

4、このように、大名に近く仕える者は、残り肴に飽食し、焼き捨ての衣類に暖衣し、その人数ははなはだ多かった。これら猥褻のことまで全体としていうと、これを宿習という。この慣習には、常識を越えたものがある。殊に人格の卑しい者に感染し、洗浄しがたい弊害を出したことが多かった。

直正公は、この宿習の一掃を進められたがその実行に当たっては、幾多の困難を醸しだし、容易ではなかった。

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