第6編 大政維新
第31巻 東北征定
第92章 東北の動乱(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)
・戊辰戦争の原因の1つに、長州人の参謀世良の傲慢不遜な態度があった。
当初、東北14藩の重臣が会合し、仙台と米沢藩と共に、会津のために明治政府に嘆願したが、却下された。長州の世良は、東北諸藩を侮蔑し、「仙台や米沢の賊が朝廷を軽んずる心は、片時も、さしおきがたき奴・・」と書いた密書が見つかった。これを見た東北の藩士は、ますます激昂し、結局、世良は福島の旅館で刺客に惨殺された。
このように、東北諸藩の士は、薩長を憎む事はなはだしく、ますます会津に賛同し、結局奥羽同盟が成立し、薩長に対する勢力となってしまった。
・江藤は、三條実見から任命され、江戸・東京の民生にあたった。
江藤は、民生にあたって、まず奉行の職務を収めて、部局の配置を定め、旧幕府の官吏を採用して、各局に配置しようとした。ところが、人事の主任が、その人選に困難を示したので、江藤は、「小吏のなすところは、たかが知れたことだ。猿でなければ誰にでもまず採用せよ。もしその人事に耐えなければ、取り替えるまでだ。各部局の席を空席にしておくのは不体裁だ。早急に局員を配置し、これに命じて請願の金額が千両以上の案件は上官に稟議すべく、千両以下の案件は担当の処理に任せる。」と定めた。
しかし、請願が一向に上がってこなかったので、不審に思って調査したところ、 千両以上の請願については、これを900両の請願に分割して請願させ、担当者の処理に任せていたのが発見された。 調査したところ、狡猾なる担当者を発見し、 8万両ほど蓄えて、越後に 高飛びせんとしていた。やせ公卿、貧乏書生からたくさんの金をだまし取り、隠れて豪奢な生活をしていたのを発見した。これを直ちに捕らえて拷問し、死なせてしまったところ、担当部局員はことごとく震えあがり、そのため、大いに事務は渋滞してしまった。
・アームストロング砲の適不適
東北同盟の兵士は、彰義隊を除いて、思い思いの武装で、まさに武具の博覧会のごとき状態であった。まさに烏合の衆であった。
直正公は、当初アームストロング砲の威力が強烈であったので、それを使用するのをためらった。しかし、江藤新平が、「旧幕府は西洋諸国に接近し、いかなる武器を隠しているか、はかりがたい。そこで、時期を見計らって佐賀藩においてもアームストロング砲を使用する必要がある。本郷あたりの適当な場所にあらかじめ備え付け、上野で合戦があるや、これで勝敗を決すべし。」と説得した。
そこで、アームストロング砲を加賀藩敷地に設置した。戦いが始まり、 佐賀藩の死者も出始めて、長州勢も苦戦し始めた。そこでアームストロング砲を発射したところ、敵陣の死者は縦横に横たわり、残る兵士も蜘蛛の子を散らすがごとく逃げ散った。すなわち、江戸はこのアームストロング砲の力によって、全く平定したのであった。
なおこのとき、幕府方武家の妻女が、看護婦として活動を請願し、これがわが国における篤志看護婦の始めである。
その後、佐賀藩は宇都宮付近で、奥羽同盟と戦った。アームストロング砲で砲撃せんとの予定であった。しかし、小原村で、 樹木の陰に伏せていた敵軍から、一斉射撃を受け、苦戦し退却した。その死傷者は多数であった。
・12月16日、賀陽宮(かやのみや)に対する「安芸藩預け」の判決。
賀陽宮(かやのみや)は、 明治維新に不満を持って徳川氏と内通し、東西相応じて薩摩長州を追い払わんとの陰謀を運んだ形跡があるということで、「安芸藩預け」の判決が下った。この真相は曖昧で、岩倉具視の取り計らいであるという噂もあった。結局は、長く疑問の闇に葬られてしまった。
(コメント:明治維新時にもクーデター騒ぎがあったのです。こういう事実は、闇に葬られ、教科書やテレビにも出てきません。現在(H29.5)、天皇陛下の退位に関する皇室典範特例法が、国会で審議される予定です。関係者は、近い過去に、このような事件があったのをご存じでしょうか。天皇制度は、長い歴史があるので、その時々の社会状況で、通常時には考えられないことが起きます。)
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