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長州征伐後、水戸の武田耕雲斉ら350人余りが斬首されるー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-80)

長州征伐後、水戸の武田耕雲斉ら350人余りが斬首されるー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-80)

長州征伐後、水戸の武田耕雲斉ら350人余りが斬首されるー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-80)

第5編  公の国事周旋
第27巻 長州征伐公武合体
第80章 尾張総督が、長州を征伐す(元治元年 1864年 51才)

長州征伐後、水戸の武田耕雲斉ら350人余りが斬首される

1,この年8月7日、長州征伐の総督には、尾張慶勝が決まる。幕府と長州との交渉は、西郷隆盛が行った。(久米は言う)西郷は、感情に強く、政治の知識少なき武人であり、ただ義憤と情誼に駆られて、長州征伐を叫んだが、内乱の拡大を危惧して、周旋にあたった。

長州藩は、家老3人を切腹させて、その首を持って謝罪嘆願し、その他の参謀を斬首した。藩主毛利親子は、寺院にて謹慎し、指図を待つという恭順の態度を示した。
また、三条実美以下5卿は、長州藩が四国艦隊と講話したのが不満で、奇兵隊に守られ、山口から長府へ移った。

 これで、尾張総督は、長州への総攻撃を中止した。山口城を破壊し、5卿を薩摩、筑前、肥後、佐賀、久留米に移転させよと命じたが、容易に行われなかった。高杉晋作らが、5卿をもって、事を起こそうと、渡すのを阻止したためである。高杉らは、奇兵隊と気脈を通じ、萩政府反抗の勢力を高めつつあった。また、5卿にしても、5藩に分かれて孤立するのを拒んだ。しかし、結局、5卿は、太宰府に拘置された。

2,この長州征伐で、幕府は、権威を挽回しようと傲慢になった。そして、すでに断行した改革さえ撤回し、対立が激しくなった。その中で最も悲惨だったのは、水戸藩であった。

  水戸藩の勤王党武田耕雲斉は、一橋慶喜の命令で斡旋を行ったところ、これを佐幕派が憎悪し、追われた勤王党は、11月、那珂湊から上洛して一橋慶喜に訴えようと、中山道から美濃路を通り、敦賀に出たところで、折からの風や雪で困難を極め、加賀、大垣、彦根藩らの兵に阻止され、ついに加賀の軍門に降伏し、敦賀で拘束された。 そして、翌年2月はじめ、武田ら350人あまりは、敦賀で斬首された。

3,他方外国勢を見てみると、フランスは、スエズ運河の掘削工事に取りかかり、アフリカの喜望峰を迂回しない新航路を開拓しつつあり、幕府に対して、反幕府勢力を鎮圧するのに力を貸すべく、新式鉄砲を備えた軍艦を製造して送るとのフランス皇帝の手紙を出す。

英国は、攘夷論の根底は、貿易の利益を幕府が独占するからで、その利益の一部を公卿・諸藩へ分配すれば、不平の声はやむはずだとの進言をする。
現に、薩長は、表面には攘夷論を唱え、陰では、英国に傾いていた。

(コメント:ウィキペディアの天狗党の乱によれば、水戸藩は、その内部で、勤王派と佐幕派との血なまぐさい復習合戦の様を呈しています。これで、おびただしい人間が殺害されています。

規模は違っても、久留米藩も、尊王攘夷派が実権を握ると、改革派に切腹を命じています。そして、明治になるとこの尊王攘夷派は死罪となります。

久米は、日本の大多数の藩で、両派の衝突があって混乱したが、佐賀藩はそれがなかった。それは、直正公の節約と殖産興業、寛容な政治によると記しています。
学校では、「不平武士が、・・・」と習いましたが、実際の歴史を見ると凄惨です。

歴史の大きい流れには、かないません。本日(平成28年11月1日)、パナソニックプラズマディスプレイが、5000億円!の負債で、特別清算を裁判所に申し立てました。一時は「選択と集中」ともてはやされ、時代の先端を走っていたかの報道でしたが、シャープ同様、ちょっとの方針の違いで、大変な損失です。時代を先取りすると言っても、欧米の後を追えば日本で先端技術となる時代は過ぎ去ったのです。世界的な経済・開発競争の中で、時代を先取りするのはなかなか困難です。)