長州征伐後、水戸の武田耕雲斉ら350人余りが斬首されるー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-80)
第5編 公の国事周旋
長州藩は、家老3人を切腹させて、その首を持って謝罪嘆願し、その他の参謀を斬首した。藩主毛利親子は、寺院にて謹慎し、指図を待つという恭順の態度を示した。
英国は、攘夷論の根底は、貿易の利益を幕府が独占するからで、その利益の一部を公卿・諸藩へ分配すれば、不平の声はやむはずだとの進言をする。
久米は、日本の大多数の藩で、両派の衝突があって混乱したが、佐賀藩はそれがなかった。それは、直正公の節約と殖産興業、寛容な政治によると記しています。
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